おしとやかには気をつけろ その1
アルデバラン 城門付近
すっかり日も暮れてしまったが、思い出深い城壁を目にするなり、少女のテンションはさらに向上し、心を躍らせた。
「さすがはコーディネイターさんです。こんなに簡単に入れるとは思いませんでした」
「気をつけな。同じセリフを吐いて、前回兄貴は捕まっ――」
「心して潜入します。では皆様、明日の夜、お会いしましょう!」
少女は夜の太陽とも言える笑顔を彼らに向けて、検問を終えたばかりのキャラバンの貨物車両から降り、大きく体を伸ばした。
数時間、水陸両用の高速貨物船に乗せられっぱなしで、クタクタだ。
「早くただ飯にありつかなくては……!」
空腹こそ、最高のスパイス。
ウキウキと真紅のボブを弾ませて、彼女は馴染みのある夜の市街地へと飛び出していった。
◆ ◆ ◆
アルデバラン 中央官庁通り
バートンはケントを真っ先に帰宅させた。魔導騎士団の待ち伏せも考えられたが、根回ししていた警視庁の友人からはその気配はないとの返答に、そう判断したのだ。
――問題は自分だ。
食欲をそそる湯気と香り、惣菜売り場のピークとも言える人混みの中で、バートンは豚肉とニョキニョキキノコのスパイシー炒めを前にして気難しい顔をしていた。
端から見れば――かなり浮いている。だが、本人は気づいていない。
「……あの、お客さん。何にします?」
「あっ」
見かねた店員の声に、彼は初めて我に返った。
思えば何でこんなところにやってきたのかも定かではない。だいぶテンパっているようだと、若干赤っ恥をかいた彼は慌てて惣菜に目を通すが、
「え、えっと……」
彼は困惑した。クソ真面目にも、仕事一本で歩んできたせいか、食べ物にはあまり執着がなかった。これだけの惣菜を目の前にしても、食べたいものなど、パッと浮かぶはずない。
だが、そこへ、
「豚肉とニョキニョキキノコのは、スパイス強めがおすすめです」
「――じゃ、それ2人前」
「あと、こっちの極東エビのチリソース炒めも白いご飯が進みますね」
「じゃ、それも」
「アルデバラン産生ハムサラダもいいですね~前菜には持って来いです」
「それももらおう!」
神の声に、あっという間におかずが決まった。
こんな新鮮な気持ちで買い物を終えたことはない。
思わぬハプニングに、バートンは清々しい顔で店員から惣菜を受け取ったが、これだけでは食べ盛りの男子には些か物足りないことに気づく。上司として飯を振舞う以上、部下に物足りない思いをさせては面子が立たない。
まだまだ買い足しが必要だ――
「次は主食ですね~向かいのモッフモフ工房のバゲットかオニギリがいいです」
「主食までおすすめがあるとは……ありがとう! どこの誰かは知らないが、あなたのおかげで――」
食の達人の声に、バートンはこの上ない感謝の念を抱いたが――光の速さでそれを道端に投げ捨てた。
彼を待ち構えていたのは、紅の髪をした可憐な少女の微笑み。
極上の笑みのはずが、この背筋を駆ける悪寒はなんだろうと、己に問う。
答えは簡単だ。彼は知っているのだ。バートンは、この少女が猫を被った化け物であることをよく知っていた。
「こんばんは~戻ったんですね? 人間に!」
「…………」
「私のこと、覚えてますか? 忘れるわけないですよね?――私は忘れもしません」
彼女は悪気もなく、笑顔で自分の髪に銃を撃つ真似をして見せた。
少しばかり、少女の声が低く聞こえたのは幻聴だろうか。
彼は結局、計り知れぬ少女のどす黒い負のオーラに気圧されて、強請られるまま、夕飯を買わされるハメとなった。
◆ ◆ ◆
ステファン家
【sub エステルです】
――今、アルデバランに来ました。
これが1通目のメール。そして、2通目が次の通りだ。
【sub エステルです】
――今、軍部の近くにいます。何で返信くれないんですか?
「……」
ケントの手が自然と震える。カタカタと爪先を携帯の画面に当てながら、彼はまた別のメールを開いた。
3通目。
【sub テルです】
「テルって誰!?」
――今、官庁通りを歩いてます。さっきすれ違ったのに、どうして気づいてくれないんですか? 返信もしないクセに。
「…………」
これは、あれだ。あれなのだ。
何か、ストーカー殺人にありがちな展開だ。いくら夏場で夜だからって、冗談ではないだろう、冗談は。
きっと単純に気を遣うのが面倒臭くなったのだ。長旅の疲れで名前も省略し、恨み節に近い内容を送信しているに違いない。
そう思うように努めるが、ケントの顔面はさらに痙攣に似た症状を起こす。
震える手で5通目を開くと、
【sub テルです】
――お家の位置特定しました。逃げても無駄です。
「なんでだよォォ!?」
【sub テルです】
――今、近所の肉屋の前です。豚が一頭吊るされてます。いいですね……生ハムサラダ。
「ひっ……!」
【sub テルです】
――明かりついてますね? 1階ですか、助かります。荷物が重いので、ええ。
その時だった。
窓の外からギィィィィッと、重い鉄の何かを路面に引きずっているような音が聞こえて来た。
文面から察するに――テルさんだ。テルさんの来訪だ。
では、彼女が抱えている荷物は何だ?
スーツケースなどかわいらしいものではない。この音は、武器的な何かだ。それもかなり大きな得物であることは違いない。話の流れを整理すると想像図は自然と見えてくる。
肉屋に立ち寄ったとすれば、重い荷物の原因は明確だ。
つまり、解体包丁だ――人ひとり一撃で殺れるサイズの。
「――させるかァァァァァッ!?」
少年は純粋に生を求めた。
恐怖心に煽られる本能は、無我夢中で彼を戦闘態勢へと駆り立てる。全方位の施錠を完了させ、2階と1階からソファーや椅子を掻き集めてバリケードを築いた。
そして仕上げに、ケントは幼少時代の金属バットを取り出し、ヘルメットを深く被ってマウンドに立つ。
だが、ついに時は来た。
携帯のバイブレーションに気づき、ケントは咄嗟にメールを確認した。
すると、
【sub テルです】
――今、あなたの家の前――
ピンポーン♪
「……!」
ピンポーン♪
そのピンポンは悪魔の来報。バリケードの向こうから放たれる、この世の邪悪、いや、生物の尊さを知らぬ無機質な殺意に、ケントはガタガタと歯を震わせた。
次第に、ピンポンの音は激しさを増す。
――ピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピン――
「……!?」
自分の心臓の音を耳に、ケントは呼吸すら忘れた。
だが恐怖を押し殺して、彼はこのドアの向こうで待つ処刑人と話をするために意を決す。まだ一辺でも残っているであろう、ヤツの人間の心を信じてバリケードを潜った。
ガチャガチャ動く取手。かつての勇者は涙目でそれをガッと握り、解錠し、勢いよくドアを開けたのであった――
「生ハムサラダが簡単に食えると思うなァァァァァ!?」
ケントはバットを構え、絶叫するが、
「……すまん、嫌いだったか?」
「隊長ォォ!?」
拍子抜けだった。
テルさんかと思えば、待っていたのは沢山の買い物袋を抱えた上司、バートン・エルザであった。エステルのメールのせいで忘れかけていたが、今後の対策を話し合うために、彼を待っていたのである。
「大げさだな……出てこないから何かあったのかと心配したぞ」
「よかった……ただの悪ふざけだったのか」
ケントは心底安堵し、携帯片手に壁にもたれかかった。
しかし、何故かバートンは彼と目を合わせようとせず、少し落ち着きのない様子で、
「入るぞ。立ち話も何だからな」
「どうぞ。すみません、散かってますが……」
彼はそそくさと家に入っていった。その行動を不思議に思いながらも、彼が家に入ったのを確認し、ケントは扉を閉めようと再び視線を玄関に戻した。
そして、心臓が止まった。
「…………ニヒッ」
――おわかりいただけただろうか。
「……」
底の見えない闇が渦巻く黒目。猫の目のように、瞬きもせずにそれを見開き、彼女は薄ら笑いを浮かべた。
見覚えのある、紅の髪とボブカット。どうしてこうなったのか、バートンを死角にし、真の来訪者はこの瞬間まで息をひそめていたのだ。
「すまない、ケント……振り切れなかった」
上司が一回も目を合わせてくれなかった理由を理解した。彼の言葉を聞くとテルさんは満足そうにケケケッと笑い声を立てた。
悪魔は己の欲を満たすために、あらゆる手段を使うのだ。
ケントは白目になりながらも、仕方なしにテルさんを家にお通しした。
悲しいことに、これが人生初のケントが親族以外の女性を家に入れた瞬間であった。