恩返しはお早めに その1
――ねぇ、フェンディ! 何で泣いてるの?
「エステル様、お兄様は戦争でお疲れです。あちらで私と遊びましょう」
――嫌よ! だって、フェンディ、ずっと泣いてるもん!
「エステル様、お兄様は大事なお友達を亡くされたのです。さあ、こちらへ」
――友達? どうして戦争で友達ができるの? 皆、国のために死ねる洗脳人間でしょ?
「エステル様! とにかく、いらっしゃい! あなたは……まだ勉強が必要です」
――勉強? 勉強、勉強、勉強ッ! もう嫌ッ! 何でフェンディにはお友達がいるのに私にはいないの? 同じ魔導経典の申し子なのにッ!
その後、エステルは泣きじゃくった。その声は屋敷中に響き渡り、酷く乳母を困らせた。
これが、彼女にとって最も恥ずべき記憶だった。
幼さが招いた、無自覚の悪意と言えど、自分の決定的な欠陥を露呈した事件。
人の気持ちがわからない、という性根の悪さに彼女は落胆していた。
だからこそ、一人でレガランスの元に飛び込んだのは意味があるのだ――
◆ ◆ ◆
アルデバラン ベルローズ遺跡
周りに犇く殺気に満ちた魔力の残光に、エステルは気を張った。ホバーが走り抜ける渓谷は先の攻撃により酷く溶解し、息をするだけで肺が焼けそうだ。バニーが防御魔法を張ってくれていなければ、一歩たりとも足を踏み入れることは叶わなかっただろう。
仲間を戻して正解だったと、エステルは心底思った。
「人の気配がない……やはり全員消されましたか」
『ウキュ……』
「そんな顔しないでください。バニーちゃんの予報通りなら、この遺跡にはナルムーンが隠し持っている2ページ分の魔導経典があるはずです! それらを味方につければ……必ず勝算は――」
岩壁が崩出す気配に、エステルは顔を上げた。バニーが前足をバタつかせる先で、大きな亀裂が入り、岩が雪崩のように進路を塞いだ。
彼女は咄嗟にホバーを旋回させるが、その行動が裏目に出たことを直感的に悟る。
肌を突き刺す魔力に、鳥肌が立った――
『キュゥゥゥゥッ!?』
バニーがハリネズミのごとく逆毛立つ。その前にエステルはホバーを放棄し、風魔法で宙に舞い上がった。
一秒にも満たない間に――轟々と流れ込む青い炎に岩とホバーは飲み込まれる。足下の死の業火は辺りを焼きつくしたかと思えば、一瞬のうちに姿を消し、熱さのない更地を創造した。
空中から見える、蒸気の影。不自然な風によって開けた道の先にには、禍々しき怨念の化身が彼女を待ち構えていた。
アメジスト・バイオレットのフェイスに光るルビーの瞳は不敵に、
『さすがはフェンディの身内。度胸は一人前のようだ』
「レガランス……!」
『サンズのバインダーなしに俺達に挑むつもりか?』
「俺達ですって――!?」
蒸気の奥。完全に気配を消していたそいつに、エステルとバニーは茫然とした。
このタイミングで蘇ることは計算外であった。いや、それ以前にこれだけのものの存在に魔導経典であるバニーですら察知できなかったことが問題である。
「嘘です……!? 何で、何でヴァルムドーレがッ!?」
『簡単なことだ。こいつは神話の邪竜じゃない。そいつを基に作ったコピーだ。化石の状態から一回り小さくなった分、攻撃向きじゃなくなったが、補助魔法に特化した性能を備えてある……これが何を意味しているかわかるか?』
地上に降りたエステルは、無意識に後退りした。
「まさか……魔導指揮? これがあなたのコンダクターだって言うの!?」
『そうだ。一万年の時を超え、こいつは我が力となる。もう一度この世を鋼の魂に満たすためにッ!』
敵の魔力が急上昇した。超高等魔法の発動気配に、バニーとエステルは互いの魔力を強調させる。
そして、
『魔導指揮――協奏魔法《青き炎竜の毒牙》!』
ヴァルムドーレがたらふく魔力をレガランスに送り込む。ラスティーラを苦しめた、あの青い炎が竜の姿となり、とてつもない速さでエステル達に襲い掛かった。
「バニーッ!」
『ムッキュワァァァッ!!』
山吹色の閃光、高等防御魔法《天体防衛》が二人を守る。敵の力に揺さぶられながらも、最高潮に達したエステルとバニーの魔力は寸前のところで踏ん張った。
「はぁぁぁぁッ!!」
エステルの絶叫とともに、天体防衛は青き炎竜の毒牙を防ぎ切った。だが、その結果を素直に喜ぶことはできなかった。彼女が全身を痺れが蝕み、身体機能の低下に陥る一方で、ヴァルムドーレは何事もなかったかのように、飛翔した。レガランスはもはや自分の手を煩わす必要もないと考えたのだろう。
その場から一歩たりとも動かず、
『喰え。腹の内で哀れな兄と再開させてやれ』
「――ッ! バニーッ!! 奥義魔法《進撃する太陽》ァァァッ!!」
『キュインッ!』
彼女の十八番である熱魔法――とりわけ最高温度を叩き出す奥義を繰り出す。魔導経典の加護を受け、その威力は何十倍にも跳ね上がる。
まるで、星々の誕生だ。
灼熱の流星は全弾ヴァルムドーレに狙いを定め――命中する。
再び渓谷が猛烈な爆炎の大河と成す。この威力を全て食らって無傷のはずはない。
そう、彼女達は確信していた。
だが、現実は残酷であった――
「そんな――バカなッ!?」
爆炎を切り裂く漆黒の翼。炎に照らされて、紫水晶よりも怪しげなヴァルムドーレの滑らかな装甲が、非情なる現実を彼女達に突きつけた。
あれ程、晴れていた空に雲が立ち込めていた。その暗雲にヴァルムドーレの雄叫びが反響し、エステルは足掻きようのない無力さを知った。
レガランスはその様子を大層愉快そうに、
『たった半ページの魔導経典でよくやった。褒めてやるぞ、小娘! だが、バインダーなしに勝てると思ったのか?』
「……」
『ヴァルムドーレにはお前の兄と、その魔導経典の半身が使われている。同質の魔力への対抗策などヴァルムドーレにとって容易いものよ……魔法分析力を盛り込んだ機械生命体だ、簡単に落とせると思うな』
震える唇を彼女は噛み締めた。
相手は自身の半身。そのことに責任感を感じてか、気圧されるエステルを何とかしてバニーは奮い立たせようとする。
その気持ちにエステルは答えようと再び、メジャーバトンを振るが、上空からの羽音に、彼女は生きる意志を砕かれる。
急降下するヴァルムドーレ。まさにその口から。青い炎が吐かれようとしていた。
「このォォォッ!」
防御魔法は間に合わない――咄嗟に彼女は熱と雷の複合魔法で応戦するが、攻略法もなしに相殺できる代物ではなかった。
「――!」
『キュゥゥゥゥ!?』
猛威を振るう邪竜の呼気に、耐えかねたエステルの魔法は即座に暴発した。バニーは咄嗟に彼女を守ったものの、エステルの体は宙に投げ出され、虚しくも人形のように地面に叩き付けられた。
全身に走る火傷の痛み。だがそれ以上に、悔しさに殺されそうだ。ここまでの惨敗を強いられた自分への腹立たしさに、彼女は土に爪を立てた。
『虚しき葛藤よ……ノーウィックの血を以ってしても人間である以上、所詮それが限界だ』
「……あ、あなたはなぜ……この世を亡霊なる機兵の世界に戻そうとしているの……!?」
その時、ヴァルムドーレがレガランスの隣に降り立った。
『他愛もないことだ。己の潜在魔力を発揮するには人の器は小さ過ぎる。人は死ぬことを恐れるが、我々は違う。己の本能のままに戦い、一滴の力も残さずに砂へ帰る。あらゆる欲求を満たすことに、何の理由があるというのだ?』
「それは……ありのままでいたいから……弱い人がいらないってことですか……?」
『そうだ』
彼の即答に、エステルは不気味な笑い声を立てた。
『……何がおかしい』
レガランスの声に苛立ちに似たものが映る。するとエステルは気が違ったかのように笑い声を大きくし、満身創痍の身を立ち上がらせた。
そしてレガランスを臨むが、その瞳は死んではいなかった――
「ちゃんちゃらおかしいですことッ! 素の自分を望む人が……何で自分を否定しているのでしょう?」
『何だと』
「……私、知ってますよ? 今喋っているのは、どっちか……!」
その瞬間、レガランスの眼光が鋭さを増した。
だが、開き直ったエステルは自分の処遇など、どうでもよかった。
「あなたもケントと同じ、前世の自分を……いえ、現世の自分を受け入れられないッ! そうでしょう? レガランス!」
『小娘が戯れを……そうだとして何になる!』
「ユーゼスさん、私、あなたの名前は知っていました。あのフェンディが助けられなかったって、毎日泣いていた……知りたかった、フェンディを泣かした友達のことを。そして理解した……あなたが、本当はとっても優しい人だってことを!」
レガランスの覇気に突風が吹いた。今までありもしなかった、彼の感情の変化にエステルは手ごたえを感じていた。
「あなたはケントの中に……未来への希望を託していた。だから、もう一度言う……レガランス、自分の優しさを受け入れなさいッ!!」
『小娘ェェェェェェェッ!!』
声だけ聞けば、彼の絶叫は敗北の証であった。
だが残念なことに、生死は力によって決する。激昂したレガランスの青き炎竜の毒牙が、今度こそエステルの肉体を微塵も残さず焼き尽くさんと宙を駆け抜けた。
――やっぱり、ダメか。
迫る炎に彼女は目を背けることなく、ただ優しくバニーを撫でた。
だが、神は真の強者を祝福する――
『エステルゥゥゥゥゥッ!!』
迎えにしては暑苦しい機械の雄叫び。しかし、それは幻聴ではなかった。
「えっ――」
途端、視界は白金の鋼に遮断され、気流がうねりを上げた。
『うぉぉぉぉぉぉッ!!』
聞き覚えのある声、見覚えのある白金の装甲。青い炎の激流に一身に耐えるそれは、間違いなく亡霊なる機兵の背中だった。彼は身を挺して、青い炎から彼女を守っていた。自殺行為とも言える光景に、彼女は人生で初めて感動に涙を零した。
嘘じゃない。でも、あり得るはずがない。
それは喧嘩別れのまま、リゲルへ向かったはずの――ケント、いや、剣帝〈ラスティーラ〉の姿であった。