魔法と剣とそろばんと その1
ナルムーン共和国 田園都市アルデバラン
ケント・ステファン一兵卒は上官に従い、凱旋帰国して間もない魔導騎士団第8部隊の宿舎へ、経理申請書片手に殴り込みに来ていた――
「だから言っているでしょう? 帳簿と物資の残高が合わない。申告漏れの原因を尋ねているんですが!」
後方支援部隊経理部調査課隊長、バートン・エルザは足早に逃げようとする、魔導騎士副団長を執拗に呼び止めた。
そんな彼の熱意に、副団長ゴッツォ・ポンチョムは鬱陶しそうに自慢のチョビ髭を撫でる。
「緊急補給だ。明細書なら数日前に経理に提出した」
「その明細書も確認済みです。それでも問題が解決しないからわざわざ来たんですよ」
「何が言いたい」
「ステファン、アルデバラン師団第8部隊の正規費用を計算して差し上げろ」
バートンの指示を受けたのは、そばで控えていた青い髪に赤いバンダナをした、10代の兵士だった。死んだ魚の目が何とも言えない印象を与える彼だが、腰元からじゃらじゃらと駒がついた板を取り出し、物も言わずに第8師団の会計報告書に目を通した。
通称ガリガリと揶揄されるポンチョムは、その道具が珍しいのか、疑わしげに尋ねた。
「何だ、それは」
「極東の古代遺跡で発掘された計算機のレプリカです。とにかく見てください」
ケントがすぅーっと息を吐き出す。すると突如、彼の死んだ魚の目がキリッと、歴戦の猛者の如く開眼したのである。
「えー、ご破算願いましては――」
カチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチ――!
狂気の計算。現場に居合わせた魔導騎士達はその後、そろばんの音が一日中耳から離れなかったと言う。人間とは得意な分野に没頭する時、ダメ人間が伝説の勇者に見間違えるほどの覇気を発するものであっただろうか。
このそろばん兵士が放つ気迫は――そう言うものであると、得体の知れない金勘定の奥深さにポンチョムは息を呑んだ。
「でました。物資総額5億5000万マニーですね。総支出額が5億4800万なので、やや節約できたといえるでしょう」
そろばん兵士は素人にはわかるはずのない、計算の痕跡をポンチョムに見せつけ、この上ないどや顔をくれてやった。
しかし、何を言われるかと思いきや、何の指摘もない正常実績を通告されだけ。
これにはさすがに、彼もイラッとした――
「し、申告と差異はないではないか! 何のパフォーマンスかと思えば、驚かしやがって!」
「確かに、余った物資数量から支出総額を計算しても、お宅の経費は予算範囲内だ。普通に考えれば何の問題はない。予算に従い、適正な物資補給と消費を行ったと……あなたは補給の責任者として認めるんですね?」
バートンが明細書の金額を指で弾くと、ポンチョムは顔を真っ赤にして、
「当たり前だ! ただの確認が用件ならこれで終わりにしてくれ。吾輩達は事務職のお前達と違って暇じゃないんだ!」
「失礼しました。これが最後の質問になります……あれは何ですか?」
バートンが示した先にはいつの間にか、銃器が易々入るほどの大きな木箱が台車に乗せられ、いつくも運び込まれていた。すると、ポンチョムを取り囲むように、木箱を移動させてきたバートンの部下達が彼に厳しい目線を突きつける。
そして、彼はその木箱を目にするなり顔色を一転させた。
「箱を開けたら山のように葡萄酒が敷き詰められていましたよ。随分、禁酒を徹底していたようで感心です」
「……ただの余剰分だ。次の出兵に繰り越す予定の」
「分配は我々の仕事です。全員、中身を確認しろ」
「はっ!」
号令と共に一斉に木箱は開けられ、クッション用に敷き詰められた馬草をかき出す。すると中から血の色よりも深みのある葡萄酒が艶やかに顔を出した。
ところが、どうだ。バートンが木箱から葡萄酒のビンを1本取り出してみると、そのラベルに書かれた銘柄は、明らかに補給物資として分配した物とは違う。もっと高級感があり、物資という名には相応しくない代物だ。
「葡萄酒の銘柄が違いますが、どういうことです? 完全に密封だ、別の容器に入れ替えたわけでもないでしょう」
彼の部下達は念入りに葡萄酒の栓を確認していた。
「と、途中の町で調達したのだ! ポルックスまでの砂漠越えは過酷だった。兵士への慰みが必要だったのだ。数は報告通りだ、何が悪い!」
「そう、数は問題ない。問題は単価とこれを調達したという事実だ」
バンッ! とバートンは木箱を殴った。その威嚇に上級騎士は益々顔を青くする。
「この葡萄酒は極少生産の最高級品だ。流通経路はポルックス国内のみにしかあらず、遠征途中で調達など不可能。なぜなら、我々ナルムーンが経済制裁によってポルックスを袋の鼠と化していたからだ!」
適正な支出と、言い切ってしまったのが運の尽きだ。この大嘘が示す悪行の素性は、ケント達が知る限り、ナルムーン軍の意向に関わる大罪に繋がる。
結論はつまり、
「ポルックスで略奪をしましたね? 第8部隊だけでない、魔導騎士団全体の報告もある」
「……」
「これだけの量の葡萄酒、ポルックス国内で入手したとするなら、間違いなく制圧後でしょう。しかもこの一本の単価、庶民に手が出せる値段ではない」
莫大な額に、ケントは自然とそろばんを弾いた。
「750ミロットル(=750ml)で、時価200万マニー。それが7本×7本の16箱だから――15億6800万マニー!? 通りであんな最新鋭魔導機械がボンボン投入されてるわけか……」
――俺だったら生涯年金を払って、半分以上貯金に回す。
とでも言いたげにケントはその金額から、夢のある生活費の計算をしていた。
追い詰められたポンチョムは、手も足も出ない己の力量に不健康な顔を一層青くして、凄まじい歯軋りをした。
ある種の精神攻撃か! と、その音を嫌う会計調査団は即座に耳を塞ぐ。
「会計検査院の狗が……! 味方を監査して何になる!?」
「全てはナルムーンの誇りのためだ。サンズ教皇国という伝統と礼節の国に、我々のような新興国が勝つには並々ならぬ矜持と秩序が必要だ。だからこそ、お前達の行為は円滑な統治の妨を妨げている! 目をつぶることはできない……!」
「ぐぬぬ……!」
バートンは検査院からの調査許可証に視線を落とし、彼を見た。
「度重なる不審な軍備増強に、検査院は本腰を入れて調査を開始している。ここで吐かなければ、軍法会議に――」
そう言いかけた時、ポンチョムが青白い顔をニヤつかせた。背中を撫でた殺気にバートンが咄嗟に振り向くと――
「ケント、避けろッ!!」
部下の真後ろで、ロングソードを振り上げる大男。猛虎の如く無慈悲な眼差しは、真っ直ぐにケントを見下ろし、剣を彼の脳天に振り下ろしたのだった。
――殺られた!
誰もが目を覆おうとした刹那、ガキンッ! と耳をつんざく金属の激突音が、最悪の事態を否定した。
間一髪、ケントは魂の剣とも言えるそろばんで、刃から脳天をガードしたのだ。
これには突然の刺客も意外そうに、
「ほう……! 避けたか」
「――ッ!」
じりじりと重みを増す剣に震える手足。襲い掛かった一撃は、脳天から足の指先まで電撃が走るに等しい衝撃を残した。
これ以上の均衡状態は危険だ――そう踏んだケントは、巧みにそろばんを剣の重圧から外し、逃げるようにして距離を取った。
それを見た仲間達はすぐざま剣を構えるが――
「やめろ! 軍内で争いを起すな!」
バートンの怒号に兵士達は行動を思い留めた。
「その通りだ。だが、これは一体何の騒ぎだ? 後方支部隊隊長バートン・エルザ、俺の部下が何かしでかしたか?」
「重大な条約違反です、ロベルト・シューイン団長。あなたの束ねる魔導騎士団は、禁忌である略奪行為及び不正売買に手を染めている。他ならぬ監督責任を指摘しに参りました」
「ふん! はっきり言うな」
橙と黒が入り交ざる、猛獣のたてがみのような髪型。顔に入った民族的な刺青が、その狂暴な顔つきを一段と恐ろしく見せていた。
だが、それにも負けないバートンの堂々たる気概も恐ろしい。ケント達は見えない火花の激しさに、指をくわえて両者の顔を見比べるばかりであった。
「言いたきゃ、軍法会議にでもチクればいい。ま、それで俺達が更生すると思ったら大間違いだがな」
「何だと?」
ロベルトはロングソードの汚れを拭った。
「残念ながら、議会は大陸制圧のことしか考えていない。処分が下っても、勝てば全てチャラだ。それはお前達がよくわかっているだろう?」
「その軍の体質を我々は是正するつもりで動いています。魔導騎士団がやらねば、暴虐武人は増えるばかり! だから、協力をお願いしているのです!」
「協力だ? ナマ言ってんじゃねぇぞッ!」
彼の髪が逆立つ。真面目過ぎる彼の自論は失笑を通り越して、ロベルトの神経を逆なでてしまった。
次の瞬間、魔力は感情を体現させる。怒りに駆られて突き刺した、ロベルトのロングソードは足元を揺らし、そのヒビを伝い、コンクリの床をボロボロに切り崩した。
人の感情が天変地異を起こす――目の当たりにした魔力の激しさに誰もが震撼した。
ロベルトは食い殺しそうな視線でバートンを捕まえ、
「協力……! まるでお前ら勘定部隊が俺達魔導騎士団と同じ立場に立っているような言い草だな?」
「何を――」
「金勘定なんて一般人でもできる! 誰が戦争に勝っているおかげで、そんなポジションに立っていられると思ってるんだよッ!? ああ!?」
その怒声は獣の呻き声のようなものが混じっていた。調査団のメンバーは、彼が少数戦闘民族〈半虎人〉の末裔であることを知っていたが、今日初めてその名の意味を理解した。
激昂した彼の筋肉は皮膚がパンパンに盛り上がり、青い血管が浅黒い肌にくっきりと浮かぶ。しかも、彼の瞳は虎の如く瞳孔を細め、牙と爪が徐々に伸長しているではないか。
「サンズが我が軍に恐れ成しているのは、圧倒的な恐怖とこの亡霊なる機兵たる魔導騎士団団長がいるからだ!」
弱者の気持ちを理解できない彼は、たてがみを振り乱してさらに吠えた。
「魔法もロクに使えない、お前達後方部隊風情が物申すなど百年早い! 文句があるなら騎士の位を授かるか、魔導師になってから言え! まあ……ボンクラ兵隊がうちにクラスチェンジなんぞ、聞いたこともないがな!」
腹の底から会計調査団を嘲笑うロベルトの傍らで、バートンはこれ以上の監査を諦めた。
「……全員、撤退だ。この件については後日、また伺います」
「ふん、弱者は大変だな。そうやって自ら仕事を探さねばならないからな!」
「……失礼します」
ロベルトの気性からして、一歩間違えれば殺生沙汰になりかねない。それをよく心得ていたバートンの判断は正しかった。悔しさに顔を顰める調査団を従え、彼はその中で一人何事もなかったような涼しげな顔つきで踵を返したが、
「おい、待て。お前だ」
「……へ?」
最後尾を行こうとしたケントはあろうことか、ロベルトに呼び止められる。
血走った目。この気迫をさすがに無視できるはずない。死んだ魚の目を泳がせて、ドギマギと彼の言葉を待った。
すると、
「いい腕だな。誰に習った?」
「そ、そろばんですか?」
「違う。剣だ。勘定兵士ごときが、俺の一撃を止めるなんぞ大したもんだ。金勘定なんか辞めて前線に出てみろ。出世できるぞ?」
「そ、そんな、無茶な。あは、あはははは……!」
予想外のお褒めの言葉に、ケントはガチガチの顔の筋肉を精一杯動かして愛想笑いを浮かべた。しかし、意外にもロベルトはそれで終わりにしてくれない。無言のプレッシャーから脱走すべく、ギーコ、ギーコと錆びついた機械を思わせる動きで彼らに背を向ける。
「どうだ? 俺は、世辞は言わないぜ」
ギラギラ光る眼を、彼は直視できずに、
「じ、自分は……その、剣よりもそろばんが好きなんです。そろばんで戦うって決めたんです! ですから――これで失礼しますッ!」
声を裏返して、猛ダッシュで逃げた。そしてさっさと離脱した仲間達に追いつくなり、ケントは半泣き状態で最後尾の同僚の背中に飛びついた。
やる気のある奴ならば光栄なスカウトに違いなかった。だが、安定志向の強いケントにとって、出世への階段などただの重荷でしかない。
ダイヤの原石がただのガラス玉であったことが少しロベルトの癪に障ったようだった。彼は哀しいほどに下等な生き物を見る目で、
「向上心のないゴミめ」
と、吐き捨てた。
「どうされますか? 奴ら、またガサ入れに来ますぞ」
「放っておけ。どうせ何も出来やしない。こっちは新たな手柄を見回り部隊が持ち帰ってくるんだ。議会もとやかく言わないだろうよ」
ロベルトの言葉に、ポンチョムは思い出したような安堵の表情を浮かべた。
「そうでした……! 幻と言われた、勇者ラスティーラの銀水晶の塊が手に入ったとなれば、議会は喜んで我が師団に自由を許すでしょう」
「前世の仇が手土産か……あまり面白いモンでもないがな」
「何をおっしゃいます! 過去は過去、今は今。今生において最強の〈亡霊なる機兵〉はあなた様、〈ギルタイガー〉ではありませんか! ラスティーラなど、見つけたところでなんになりますまい。この戦乱の世に現れぬただの腑抜けにございますぞ! 我々の信ずる最強は団長以外にありえませぬ。どうぞお導きを!」
ポンチョムも大層な役者だった。すり鉢が粉砕しそうな渾身のゴマすりに、ロベルトは完全に気分をよくしていた。
「ふん、口達者め。期待には応えてやる。まずは銀水晶を教団に渡すことが先決だ。デネボラの魔導経典を強奪した盗賊団の襲撃も考えられる。奴らを捕らえ、魔導経典を奪い返せば、アルデバラン師団の基盤は磐石だ……ツキはこちらにあるぞ」
「ははっ!」
それから間もなくのことであった。師団の城外警備隊が、数多の戦利品を携えて城壁を潜った。
その中には近郊都市で発掘調査を行っていただけのフェンディ・ノーウィックが、不法入国の罪でアルデバラン師団に強制連行されていた。