太陽は沈む その4
6年前のあの日、空は泣いていた。
「……そんな面するなよ。わかってたことだ、全部。俺は謀反人だからな」
大粒の雨が彼らの心を冷やす。
神は残忍であった。
光に見捨てられた昼下がり、かつての仲間に取り押さえられた彼は、それでも笑みを向けた。胸を抉る、無垢な微笑だった。
「大丈夫だ、ケント。わかっているよ……何もかも」
「違うッ……違うんだよぉ……ザック……!」
「お前は強い。だから……泣くんじゃないぜ」
彼の顔をまともに見られたのはそれが最後だった。
雨が激しさを増す。幼い少年の涙を雨は悉く洗い流した。泣く資格などあらずと、無情にも天からの戒めなのだろうか。
彼は凍える身体で、彼に貰った紅い額当てをレインコートの下で抱きしめていた。
彼から自分を引き離そうとする、大人達に奪われぬよう。
3日後。
それが彼を見た最後の日だった。
家を抜け出し、広場に駆けつけた時には、もう全てが終わっていた。
心臓を槍で射抜かれた彼が、磔台から降ろされていた。
彼の自慢のプラチナブロンドが所々赤く染まり、海の色をした瞳はその透明度を失い、一点を見据えたまま動かない。
魔導騎士は慌てて自分を遠ざけたが、たった一瞬で記憶の深層にまで焼きついた。
忘れるものか、忘れられるわけがない。
この日を境に、夢を見ることを諦めた。
なのに、なぜ?
こんなことがあるはずないじゃないか――
◆ ◆ ◆
シリウス 市街地 裏路地
「……久しぶりだな、ケント」
「……嘘だ」
「危ないところだった。あと、3秒遅かったらしょっ引かれてた――」
「こんなことあるはずないッ!!」
胸が苦しい。胸が張り裂けそうなこの感情を何と呼べばいい?
呼吸困難に陥る自分を懸命に落ち着かせて、ケントは再び、頭巾を取った命の恩人の顔を見上げる。何度見ても間違いなかった。
顔に傷がある長髪の男。だが、その太陽に輝くプラチナブロンドと慈愛に満ちた海の色の瞳、その持ち主は彼の記憶の中でただ一人しか存在しない。
忘れるわけない――
「おいおい、そんなに取り乱すなよ。悪かったって、驚かして!」
「誰だよ、お前は! ザックだったら死んだはずだッ!」
化物に脅える眼に、彼は声を上げて笑った。
「そりゃ、そうなるわな。あんなの魔法迷彩だって! まあ……何もお前に説明せずに今日まで来てしまったことは本当に申し訳ないと思ってる」
「それじゃ……本当に?」
「ああ、本物だよ。大きくなったな、ケント!」
ザックはケントに手を差し出し、腰を抜かした彼を引き上げてやった。その折、ケントは生身の手の温もりに、本当に彼が生きていることを実感した。
その途端、急激に熱いものが込み上げてきた。
「――泣くの?」
ニヤリと、生温かい視線にケントははっとして、
「泣くかよ! むしろムカついたわ! 何でそんな大事なこと、今まで教えてくれなかったんだ……!」
「悪い。そんだけ大芝居を打たなきゃ、教団の目はごまかし切れなくてな……」
「教団?」
「この先の広場で俺の仲間が待ってる。逃がしてやるからついて来い」
するとザックは再び頭巾を被り、細い路地の奥へと歩みを進めた。
「そう言えば……ラスティーラに帰化したそうだな?」
「!?」
思わずケントの顔が強張る。しかし、予想通りの反応にザックは頭巾の下でフッと笑った。
「見てたんだよ。ギルタイガーとの戦いを」
「そ、そうだったんだ……」
「俺は今、自由騎士と言う身分で好き勝手やってる。神の導きか、たまたまアルデバランの任務中に知らせが飛び込んで来たよ。たまげたぜ……お前がラスティーラに帰化したって」
彼はたまげたと言うが――それ以上のとんでもない事実に、ケントは仰天した。
「じ、自由騎士って、将軍じゃないか! あんなバカンス、バカンス言ってた人が、そ、そんなに出世してたなんて……」
ザックは遠い目で渇いた笑い声を立てた。
「だよな? マジで謎なんだけど……しかも、上の連中は威厳がないから髪伸ばせって、うるせーし。老けて見えるから、嫌なんだよコレ」
「なんか、色々あったみたいだね……」
「まあ、その話はさておき、将軍の俺は当然ながらお前の捕縛令を議会から申し付けられてる。だが、これ以上出世したくないから、知らぬ顔でお前を逃がしてやるぞ。感謝しろ」
「あ、ありがとう……」
懐かしさが溢れる得意顔で、彼はそう言った。
だが、これほどの安心できる味方がいるはずないというのに――ケントの心はどこか優れなかった。
ただ一つの疑問点が、この喜びに水を差していたのだ――
「ザック……何でナルムーンに戻ったの? あんだけ、嫌がってたのに……」
「ああ。もっと厄介な連中が世の中にいると気づいた……そいつらを先に始末しない限り、災いは増える一方だからな」
やや物騒な言い回しに、ケントは怪訝そうに彼の背中を見つめた。
「泥棒兎の連中には散々な目に遭わされたんじゃないのか? 血眼で亡霊なる機兵を探してるって噂だったからな」
「ホント、こりごりだ。ラスティーラ、ラスティーラって、うるさいんだよ、あいつら」
「……その中にフェンディ・ノーウィックと言う男がいただろ?」
ケントは足を止めた。ほんの数十分前の話を忘れたわけではなかったからだ。
「……あの人もザックが死んだと思い込んでたよ」
「そうか」
「それだけ? 他に何か――」
「ケント、フェンディを信じてはいけない」
そう言い放ったザックの目元は、驚くほど冷酷だった。
瞳の奥に潜む底知れない冷血さにケントの心は貫かれ、いつの間にか彼を脅威として捉えるようになった。理由のない恐怖を必死で克服しようとするが、彼の野生的本能はザックへの懐かしさも親しみも記憶の彼方へ追いやってしまう。
氷柱よりも鋭利な視線をケントに向けたまま、彼は言った。
「俺が命の危機に晒された原因はあの男だ。あいつは俺を騙して、魔導騎士団を壊滅させようとした……決定的な戦力を消し去ることで」
しばしの沈黙が流れた。
語られた真実に翻弄されながらケントは、
「……言っている意味がわからねぇよ、ザック。あの人はそんな残酷には見えない……」
「俺は甘かった。ヤツはノーウィック、サンズの中枢を成す人間。古典派は人間による魔導経典の完全管理を掲げていた……その世界に亡霊なる機兵はいない。その意味を正しく理解していれば、俺は自分の過ちに早く気づけたのだ」
「だから、何が言いたいのかわからないッ……!」
「言ってやろう。ヤツは俺を殺したかったのだ。他ならぬ、亡霊なる機兵である俺を! 消し去ることで戦争に勝とうとした!」
決定的な言葉だった。
積み重なった違和感の中から、彼は探し続けたパズルのピースを見つけてしまった。
繋がった真実の先にあるのは、夢を捨てたあの日よりも深い闇。
すべては亡霊なる機兵と言う前世の呪いから逃れぬ運命――
「……それは違う。違うよ、ザック! 心が歪んでる!」
「歪む? そうさ……あの男は善人の顔をして平気で毒を盛る! 友と信じれば、この仕打ちだ! 俺の夢はあの雨の日に潰えた……癌を取り除かなくは俺の心に安らぎは訪れないのだよ、ケント」
「正気に戻れよッ!! 恨みに取り憑かれてる……疑心暗鬼なんて、俺の知ってるあんたじゃないッ!」
感情に駆られて、彼はザックの両腕を掴み、その両親に熱意を以って問いかけるが――覗きこんだ瞳の奥には人間味の欠片すら存在しなかった。
たった数分前の、昔と変わらない彼はどこに。自分が話しているのは人形ではないのか。
だが、不思議だ。化けの皮が剥がれたにしても、ここまで偽りの記憶を語ることができるのか。直感は彼が偽物だという可能性を否定する。それは懐かしい面影にすがりつきたい心の弱さかもしれない。
だからこそ、わからないのだ。
この目に映る男は誰なのか――
「馬鹿な、他人を信じろと? お前なら俺の気持ちがわかるはずだろう……ケント?」
「――!」
心臓が止まる。取り乱すケントを見て、頭巾の下で彼は僅かに笑い声を立てた。ザックはケントの手を払うと、彼の肩を捕えた。
そして、震える瞳の奥を殺意を以って覗き込む。
「……大丈夫だ、ケント。わかっているよ……何もかも」
「……」
「お前はガキだった。故に恐怖心に負けることも俺は予測していたよ……だから、逃げなかった」
「――ザックッ! 違うッ! 違うんだッ!! 俺じゃなかったッ……!」
亡霊の恐怖から逃れるためか、その叫びはむしろ、ケントの自己暗示であった。
だがそんな彼に、ザックは全身が粟立つほどの優しく慈愛に満ちた声音で問いかける。
「脅えることはない。俺はお前を許した……そうだろ、ラスティーラ? 前世の恨みも、現世の罪も俺は全て許そう。新たな世界の幕開けのために――」
放心するケントの目の先、広場に真昼の太陽を浴びて、ザックのプラチナブロンドと青き瞳が鋭く光る。
そして、待ち構えていた黒尽くめの集団に、ケントは全てを悟った。
自分も同じだった――全てこのための茶番だったと、彼は脱力に陥った。
「亡霊なる機兵〈レガランス〉こと、ユーゼス・マックイーンが命ずる。我が右腕として生きよ、ラスティーラ!」
皮肉なことに、彼こそ張本人であった。
時計仕掛けの運命は、ケントがもがき苦しんで築き上げた希望も未来も全て打ち砕き、悲しき記憶の淵へ彼を再び突き落としたのである。
――もう、足掻くのは疲れた。