呪われた記憶 その2
ナルムーン共和国 国境付近のどこか
「――それでは、サンズ遺跡調査隊救出成功および、ラスティーラこと、ケント・ステファン君の入団を祝して、乾杯!」
「乾ァァァァァ杯ッ!!」
「……はい?」
可憐な少女の音頭の元、熱気にむせる野郎どもの祝杯にケントは飛び起きた。どうやら気を失っていたらしい。はっと目を凝らすと、警察のような制帽に紺色のトレンチタイプのフリフリワンピースを召した少女が、何やら緑の液体をジョッキで一気飲みしている。
――知っている、知っているぞッ! あのトンデモガール!!
待ってましたと、脳内を駆け巡る悪夢のハイライト。我に返れば、あれびっくり。椅子に鎖漬けにされているではないか。
しかし、自分がどうしてここにいるのかは思い出せない。どこかで彼女らと出会ったような気がする。
故にケントはこう結論付ける。彼女らが何かで何かやらかして、何かの理由で自分がここにいると――
「ぷはーッ……あれ? わお、お目覚めですね!? スターダスト・バニーへようこそ、ケント・ステファン!」
「誰が仲間になるっつった!? てか、何これ!? どこだ、ここ!?」
見た限り船のブリッジだ、窓には景色が走っている。しかもここが、アルデバランから大分離れた位置であるとケントの土地勘が騒いだ。
一体何なんだ?
草原と岩肌から推測するに、ここは間違いなく陸上だ。それならば、この船は水陸両用の戦艦なのか。
(――いやいやいやいや!)
問題はそこではない、この状況なのだ。
自分は捕まっている。では誰に? 何の目的で?
それを導き出すのが彼女達の正体。だが、彼女達が何者であるのか、釈然としない昨夜の記憶から察しても、やはりとんでもない結論にたどり着くことになる。
それもそのはず――
「えっへん。驚くことなかれ、あなたは今、盗賊団スターダスト・バニーの母艦〈バニー〉の中にいます。ちなみにここにいる皆、私の大事な友達です」
「友達……」
ケントが恐る恐る辺りを見回すと、今にも「ヒャッハーッ!!」とナイフ片手に狂乱しそうな野郎どもの顔がずらり、ずらり、ずらりッ! 皆、祝杯用のグリーンスムージーを手にしながら、穴が開きそうな目つきでケントを迎えてくれていた。
「あ、あの、ずいぶん立派なお友達をお持ちで……!?」
裏返る声。死んだ魚の目が、真っ白な焼き上がった魚の目に変貌する。
そう言われて、エステルは嬉しそうにジョッキを掲げた。
「でしょう? 皆見かけによらず、優しいんです。クタクタだっていうのに、ちゃんと朝ご飯まで用意してくれて、心遣いは5つ星ホテルのサービスにも劣りません!」
「そうか、わかったぞ。君は成り行きでさらわれたどこかのお嬢様――」
「ゴルァァァ!? お頭をお嬢ちゃん呼ばわりするなんざ、この無礼者ッ!!」
団員の怒号にケントは椅子ごと飛び上がる。しかし、さらり発せられた解せない重要事項に彼は目を真ん丸にして、団員とエステルを見比べた。
「お、お頭って……まさかあんたが!?」
「おい、てめぇ! 大魔導師エステル様に『あんた』とは何だ! サンズ軍属魔導学校をスキップした上、首席で卒業した超天才なんだぞ、こら!?」
「ひっ、ひぃぃッ!?」
ぬうっと詰め寄る鶏冠頭とリーゼント。勢い余って、彼らはキンキンに冷えたジョッキをケントの両ほっぺをぐりぐりねじ込む。モノホンのギャング(※ただし、片方は元カフェ店員)にいびられ、凡人ケントは狼に包囲されたチワワ同然である。
だが、そのウルウルした瞳が気色悪かったのか、鶏冠頭とリーゼントはさらに彼にどつき、
「何だ~その顔は? このグリーンスムージーが気に入らねってのかァ!? 野菜嫌いかこの野郎!」
「い、いやいや! まだ何も言って――」
「健康第一だろうがッ! 朝っぱらから酒なんか胃もたれするっつってんのが、わかんねぇのかッ! ゴラァ!」
「ちなみに副長とショコラさんとフェンディ様以外、全員未成年だからどっちみち飲めぇけどな」
「――意外と真面目!?」
雰囲気に呑まれるケントとヒートアップする盗賊達。ついにかれらは歓迎の意志からか、ケントにグリーンスムージーを無理やり飲ませ始めた。
しかし、これでは話が進まない。見かねたエステルは、スムージーのおかわりをを飲み干して、仲裁に移る。
「もう、マカロンとホットケーキ、落ち着いてください! 団長命令です!」
「え――それ名前なの!?」
「まったく、武勇伝をアピールするなんて、盗賊団の風上にもおけませんよ。破天荒なだけが取り柄の盗賊と思われたら恥ずかしい限りです!」
「いや、ちゃんと法律守ってるのに破天荒ですか?」
「――! さすが、伝説の亡霊なる機兵ですね。そのツッコミの高さ、前々からマークしていただけのことはあります」
「あの、やめていただけますか? その、まるで僕が偉業を成したような顔は」
鬱陶しいほど輝く笑顔からケントは目を逸らす。
しかしその折、彼は大事なことを思い出したのだ。
「亡霊なる機兵……そうだ……俺――!」
そのワードは断片的な記憶を見事に繋ぎ合わせた。昨夜、上司と仲間が石にされ、自分だけ何故か無事だった。無事だったからこそ、無情な仕打ちに激怒して立ち上がった。
そして戦ったのだ、あのギルタイガーと。
辛くもヤツに打ち勝ち、彼女らと共に夜中の草原を逃げてきた。そして何かに導かれるようにこの船に辿り着いた――
「……思い出したようですね?」
見上げると、エステルは凛とした顔つきで制帽を取った。
「この度は我々、スターダスト・バニーの仲間を助けてくださりありがとうございました。自己紹介がまだでしたね。私は頭領のエステル・ノーウィック。サンズ教皇国に属する魔導師です」
「サンズの……!?」
「そして、さっきからそこでウィンウィン、スムージーを大量生産しているのが、副頭領のキエル・ロッシです」
すると特設カウンターの中から、三角巾・エプロン・マスクをした金髪のドレッドヘアの男がぬっと顔だし、さっきまで元気だった狼藉者達は緊張のあまり表情を強張らせた。
キエルは無言のままマスクを外し、ケントを睨みつけて、
「……お前、タバコ吸うか?」
「いや、未成年ですし、金の無駄だから興味ないっす」
「……職務中にポテチ食ったりしねぇだろうな?」
「無駄な動作は勘定のミスの元だからやらないっす」
キエルはピクリと眉を動かし、カウンターの外へ飛び出た。まるで決闘に臨むような雰囲気を醸し出し、彼は問う。
「……じゃあ、最後に一つ」
「……何ですか」
一同は息を呑んでその言葉を待った。
そして、
「てめぇ、便所の後には手を洗うだろうな……!?」
「洗うっす、絶対。汚ねぇ手で、大事なそろばんは触れないし」
「――君、合格ッ!」
どっと歓声が沸き起こる。何だかしらないが、キエルはケントの頭をワシワシと撫で、歴戦の友の如く肩を組んだ。
予想外の結果に逆に置いてけぼりを食らったエステルは慌てて、
「ちょっと、ストップです! まだ肝心の本題に入ってません!」
「本題? 別にいいんじゃね? 死んだ魚の目をしやがってるが、思いの他、キチンと系男子で俺は安心した。入団を認めていやるぜ」
「やった! あざ――ん? 入団?」
ピタリとケントの動きが笑顔のまま止まる。
エステルはこの瞬間を逃さなかった。すかさず、拳を利かせた演説を彼にたたき込む。
「そうです! あなたはラスティーラの銀水晶を含む、私の魔法杖をきっかけに帰化することに成功した。もはや、昨日までのヒラの勘定兵士とは違います。亡霊なる機兵に天装できるあなたにお願いしたいのは、魔導経典の奪還。つまり、私達と共にナルムーンと戦って欲しいのです!」
「ああ、ナルムーンと戦う……ね?」
ケントの脳みそが今の話を完全に理解するまで、10秒ほどの間が流れた。
――そう、ギルタイガーは倒したんだ。これで安心……あれ?
すると、彼はやらかしてしまったことの重大さにやっと気づくのである。
よく考えろ。何があったとは言え、ロベルト・シューインは一応味方。
味方を裏切る、つまりは――謀反。
「――うわあぁぁぁぁぁぁ!?」
「ど、どうしたんだ? 兄弟?」
「や、やらかした……!? 友軍をブッ飛ばして……挙句の果てに石になった隊長達も置き去りに! もうアルデバランには帰れない!!」
「別にいいじゃねぇか。サンズもいいところだぜ? あんな田舎っぽい街、捨てちまえよ」
「ふざけんな! あそこには婆ちゃんが残されてんだ! ど、どうしよう……今頃、軍の人質になってんじゃないのか? 間違って暗殺者に茶でも出してんじゃないのか!?」
ショッキングなあまり、ケントは鎖に繋がれたまま、椅子ごとキエルに詰め寄った。
これにはさすがのキエルや他の強面たちもオロオロするばかり。
「と、とりあえず落ち着けよ……!」
「落ち着けるかぁー!? お前らのせいで俺の安定将来計画は台無しだ! もうじき給料も上がるところだったのに……どうすれば……?」
「俺が言うのも何だが、生きてりゃいいことあるって! な? な!?」
「――そうだ。謝りに行こう! 謝って事情を放せば、あの虎騎士より上の人は許してくれるはず!」
「ちょっ、待て待てッ!」
背中の椅子は亀の甲羅か。動転したケントはそのままの身でブリッジの外に出ようとするが、意地でも盗賊団の連中は彼の行動を阻止しようとする。
もめる船内。それを高みから見ていたエステルの脳内で悪魔が囁く。
彼女は声を震わせて、
「ひ、酷いっ……!」
「……え?」
泣き崩れるエステル。もちろんウソ泣きであるが、どさくさまぎれの行動であるため、誰もそのことに気づいていない。
そして彼女は白々しく涙声で、
「私と……私とあんなことまでしたのに……! その場限りの関係だったんですね!?」
妙な沈黙が流れた。誰も彼もが、顔を見合わせ首をかしげる。
「……は? 一体何のこと!?」
無論、本人もである。
彼女はしたりと、塞ぎ込んだと見せかけ、隠し持った目薬でうるうるさせた瞳を彼らの前に向ける。
案の定、期待通りの蒼顔を彼女は腹の内で嘲笑う。そして、悪魔の言葉の下に茶番劇を始めるのである――
「とぼけないでください! 私は言いました……それは結婚するのと同じだと……でも、あなたは強引に急かしたじゃありませんか!」
「ちょっと待って。いや、本当に何の事だか――」
「まさか、エステル。お前、こいつと……!」
「何? 何!? 俺なんかしたの!?」
「忘れたのですか? 私との永遠の誓いは嘘だったというのですか!?」
「永遠の誓い!? 俺そんなこと言ってな――」
「うわぁぁぁぁぁん!」
彼女は彼らに背を向け、再び目薬を投入する。
入念過ぎる仕込みについてはさて置き、当の被害者であるケントに至ってはこれっぽちも状況を理解できていない。
――本当に何のこと!?
不自然なほどに深刻なキエルの表情と、やたらメソメソしているエステルにケントはとにかく彼は戸惑っていた。絶対何もないはずが、亡霊なる機兵となってからの記憶が曖昧だ。人間と機械とで何ができるわけでもないが、何となく自信がない。
だが、他のメンバーは勘付いた。故に心を痛めながら、ケントへの同情心を隠す。
そう、これは罠だ。詐欺紛いの勧誘手段――
「初めてだったのに……夢にまで見た瞬間をあなたは踏みにじるのですか!?」
「夢にまでって……あれ? ひょっとしてあの時の――」
「あの時って何だ、兄弟? 男なら責任取って白状しろッ!」
キエルは大げさにケントの胸ぐらを掴んで揺する。しかし、ケントは精一杯抵抗して、
「白状も何も――魔導指揮のこと!? ただの協奏魔法のこと言ってんの!?」
「『ただの』なんて酷いッ! 私にとってはその瞬間のために、青春を犠牲にして、日夜勉強に明け暮れたというのに!」
「紛らわしいわッ! 冤罪もほどほどにしろ……!」
「ああっ!? あなたは私の青春を不埒な想像で汚した! 一言もエロいことなんて言ってないのに!」
「いや、酷い誤解を招く言い方をしてらっしゃいましたよ?」
「無理もないさ。魔導指揮するというのは、魔導師にとってお嫁に行くのと同じくらい覚悟がいることだからね!」
「――!?」
背後に突然現れた紅い髪と黒縁眼鏡の男に、ケントとキエルは飛び上がった。
「フェンディ!? 驚かすなよ、今までどこにいた!?」
「いや、お頭殿が思った以上に怒ってらして……気が付いたらこんな時間に」
紅いショートヘアの天辺にきれいに盛り上がったタンコブを指さして、彼は悲しげな表情で答えた。
そんな彼に悪魔から「余計なことを言うなよ?」とばかりの微笑みが向けられる。
彼は眼鏡を少々曇らせて、
「キチガイの僕が珍しく真面目にアドバイスするけど……とりあえず、テロリストの要件は呑んだ方がいいと思う」
「――あの初対面で申し訳ありませんが、物凄く不安です」
「じゃあ、簡単に説明しよう。魔導指揮というのは魔力の共有、君とエステルは一度のコンダクトによってお互いの魔力が体内に混在している状態にあるんだ」
「魔力が混在? それってどんな意味が……」
「栄養ドリンクみたいなものさ。君達二人は太陽型の魔法同士だから相性がいい。魔力の象徴〈七芒星〉の図式にある金星型、火星型、水星型、木星型、土星型、そして月型と言った他の異系統の魔導士とコンダクトするより、本能は同型によるサポートを求めて来る。いわば、相性のいい魔法同士が化学反応を起こし、爆発的な力を発揮できるってことさ」
フェンディはくいっとインテリ風に眼鏡を直す。
「ただ、注意すべきなのはここで複数の魔力が混在すると、極端に力が落ちてしまうということ。恋愛と一緒で複数の相手と関係を結ぶと、嫉妬心の如く体内の魔力が反発しあって、みんな君の魔力の取り合いになる。挙句の果てに遊び過ぎると病気に――」
「フェンディ、未成年向けの説明を頼む」
「おっと失礼。まあ、心身に影響を及ぼす。具体的には心をコンダクターに乗っ取られたり、その逆もあり得る」
「……俺が誰かの人格を乗っ取るってこと?」
胡散くさそうにケントは死んだ魚の目を向けた。
「そう。そして、最後には自分が誰だかわからなくなる……だから、亡霊なる機兵が相方として選べるコンダクターは一人が原則だ。選んだからには、死ぬまで一緒に戦う覚悟を決めなくちゃならない」
「でも、ギルタイガーは複数の魔導師をコンダクターにしてた」
「僕は直接見てないけど、それはおそらく、複数合わせてもギルタイガーの元々の魔力に満たないからできたんだと思う。氷を煮立った鍋の中に容れるのと同じで、彼らの人格なんてギルタイガーの気性の前に簡単に取り込まれてしまうんだろう。弱い魔導師だからこそ、複数でのコンダクトは可能なんだ」
フェンディのびっくりするほど真面目な説明に、ケントとキエルは感嘆の声を上げた。
「でも、エステルと君は違う。君達の場合、ドロドロに溶けた価値の高い純金同士だ。今の状態を発揮するには、同じ比率で同じ種類の金属を調合する以外、強さを維持する手段はないよね。もし、ここに銅や錫を流したら質は低下するだろう?」
「まあ……」
「その理屈だよ。君達はお互いの魔力が強力だし質もいい……いや、良過ぎる。だから、お互いのためにも契約を破棄せず、パートナーであれと僕は言いたいんだ。ね? エステル」
――真面目に言ったら面白くないじゃん。
空気読めよと、悲しき妹はつまらなそうに口を尖らせた。
「むぅ、フェンディの言う通りです。そのうちあなたは、私の魔力が欲しくて欲しくて、ムラムラしてくることでしょう」
「――拉致が明かない。通訳を呼べ」
「不要です。どの道、私にとってあなたとのややこしい関係は好都合です。ラスティーラをナルムーンに渡すわけにはいきません! お祖母様のことは、ナルムーンに潜伏している母国の間者にお願いできます。あなたも石にされた仲間を助けるつもりなら、思い切った選択が大事かと私は思いますけど?」
ややツンケンした言い草だが、ケントもエステルの言い分は十分に理解していた。だが、安定志向の彼にとって、重大な選択を迫られてもただ慎重になるだけだ。
自分に一番リスクがない選択を彼は選ぶ――そう、エステルは踏んだので、
「何もただ働きしろとは言いません。仲間になってくれたら、お国からそれ相当の報酬が約束されています。もちろん、家族みんなで暮らせる額です」
その時、ケントの耳がピクリと動いた。
喰いついた――と、エステルの目が光る。もちろん、傍で援護についたキエルとフェンディもそれを見逃さなかった。
「そうだぜ? 俺らは盗賊だけれどもパトロンはお国だ。いわば、国家公務員と同様さ」
「国家公務員……!」
「聞けばナルムーンは企業の一般職並みに後方部隊への扱いが酷いというじゃないか。お給料が低いのに、どうしてやってることは魔導騎士団のヒラと同じなんだろうね?」
「そんな苦労して貯めた貯金も残念なことだ。今頃、ナルムーンのお前の全口座は凍結になってるだろう。一文無し確定だ」
「一文無し!?」
「お祖母さんの事はこちらに任せるとして、ここまま嫌々言い続けてもお金は入らないよ。今度こそ、本当に路頭に迷うのは目に見えてる。そんな人生悲しいと思わないのかい?」
「ああっ……!?」
蘇る苦楽の日々。死んだ魚の目が、大洋を泳ぎ回るあの頃を思い出した。
欲しかったのは何だ? 地位でも名誉でもない――そう、生活費!
目の色が完全に変わったのと確認すると、エステルはついに勝負に出た。
「んもう、未練がましい男ですね! そんな労働環境の酷いところなんて辞めちゃえばいいんですよ。どうせ三下のクセに!」
「何、この娘!? 超失礼なんだけど!」
「ナルムーンの税金の高さは有名です。兵士なのに手取り15万の極貧生活でさぞお辛かったでしょうに……」
「ご、極貧言うなし! これでも実家暮らしならやってけたんだ……!」
「まあ! 一人息子で実家暮らしなんて自立もクソもないことしてたんですね!」
「かわいい顔してクソとか言ったよ、この娘」
「そんなクズみたいな暮らし、失うものなどないでしょう? 入団しちゃえばいいじゃないですか~?」
「今ので失ったよ~? 俺の自信とプライドを……!」
「どうでしょう? 今入団するともれなく収入が現在の1.5倍以上に――」
「1.5倍だと!?」
目を光らせ、ケントは再び椅子ごとガタンッ! と立ち上がった。
もはや彼は、地引網にかかった魚――船内に引き上げるべくエステルは一枚の契約書を掲げ、ブリッジのキャプテンシートから降り立った。
「そうです、ケント・ステファン!! ここにサインさえすれば、より高い給料で安定的な将来設計が望めるはずッ! 望みならば、あなたを本艦の経理係に任命してもいいんですよ?」
「え? 戦闘隊長は――」
「け、経理でいいの? 本当に!?」
どこまで地味で堅実主義なんだと、スターダスト・バニーのメンバーは若干顔を引きつらせるが、あの腹黒3人衆の術中にはまった彼を憐れんで何も言わなかった。
「もちろん、適所適材が大事です。残念ながら、この艦のお財布番人はまだ不在です。戦闘隊長は当面の間キエルに任せて、あなたはそのそろばんで大いに経費を削っていただければと思います!」
決めのポーズ。エステルはバッシっとケントを指さし、後は眼力で神頼み。一方で、ちょっと待ったとキエルは異議を唱えようとするが、いらぬ兄妹連携で彼の口をフェンディが塞いだ。
「さあ、ケント。どうしますか? 脱貧乏、脱無一文ですよ~? ほ~れ、ほれ!」
「ああっ……!? お、おれは……おれは……どうすれば!」
理想の条件が揃い、震える手は、理性に反して彼女から差し出された契約書を受け取ろうとする。右へ左へ、彼女がひらひらと契約書を見せびらかす度に、餌につられた犬の如く彼の視線は紙一枚に釘づけだ。
だが、ケントの指が契約書に触れようとした時――一匹の兎が二人の間に飛び出した。
「うわぁ!?」
「あ、こら! バニーちゃん!」
どこからともなく現れた桃色の兎はエステルの手から契約書を奪い、キャプテンシートに飛び乗った。思わぬハプニングにケントは目をぱちくりさせて、
「な、何で兎が艦内に……!?」
「バニーちゃん! 契約書を返してください!」
動じる様子のないエステルに、ケントははっとした。自分以外、誰も子の兎の存在に驚いている様子はない。
「あれ? 珍しいな……ここまで実体化するなんて」
「バニーのヤツ、エステルと仲悪いから普段はブリッジには出てこないのにな」
どうやらその辺の野兎が紛れ込んだわけではないらしいが、妙な話だ。
兎は頭をフリフリと動かし、契約書を奪い返そうとするエステルを嫌がった。すると、助けを求めているのか、兎はじっとケント見つめている。
不審に思ったエステルは、
「バニーちゃん、どうしたのですか? 私、そんな悪いことしてないですよ?」
「新顔が気になるのか?」
「――!」
ケントは沈黙するその兎の瞳に一瞬で引きつけられた。彼の心はたちまち無心と還る。そして、兎の持つ不思議な力がその真っ白な脳内に妙な光景を描き、言葉なくして彼に訴えかける。
吹き荒れるマジックバーニア、風を切るアメジスト・バイオレットの装甲、迫り来る殺気。
これは夢や幻影ではない。そう遠くないどこか、現在進行形で起こっている景色――そんな気がした。
どうしたことだろう、心臓が早鐘を打つ。寒さと息苦しさが体を蝕む――
「お、おい兄弟? 大丈夫か?」
「――来る」
ケントは無意識にそう呟いた。
次の瞬間、爆音とともに船内が大きく揺れる。走行中のバニーから10mしない位置に次々と地雷よりも激しい火柱が上がった。