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亜熱帯の植物茂る中にその研究所はあった。アゲート研究所。島の人間にそう言えば通用する。
敷地の一角にある所長の自宅。それが、少年少女の家だった。
二人は寄り添って家路を辿る。南国の太陽に照らされた影法師が地面に伸びていた。
鮮やかな色とりどりの花を咲かせる木々。
人の手など追いつかずに野放図に生える緑の中に、この地域で取れる石灰岩を利用して作った階段が小道を造る。
熱帯植物特有のつやつやした葉を這わせた壁面は、潮風にさらされて白く乾いていた。
潮風にも耐える浜夕顔の葉がかさかさと音を立てて擦れあっている。
モンスーンに巻き上げられた白い貝殻と珊瑚が、緑の中から顔をのぞかせる裏庭の小道。滑らかな飛び石が転々と砂地を這うツタの中から顔を見せ、勝手口へと手招きしている。
少年少女は、顔を合わせてにっこり笑った。手があいていたなら繋いだだろう。
特に理由はなかったけれど。お家へ帰ってきたのだ。それだけで、笑い合うには十分だ。
風通し良く開け放たれた扉から、白いエプロンをした初老の婦人の姿が見える。
アゲート家の家事一切を取り仕切るエレクトラ婦人は、移民系オセアナ人の特徴を良く表した浅黒い肌と黒髪黒瞳の女性であった。
恰幅のいい体格で、そろそろ髪に白い物が混じり始めた昔美人。付け加えるなら、今も美人。
隣の少女も、いつか年を取ったら彼女のようなお婆ちゃんになるのだろう。
それは、少年にとってとても素敵なことのように思えた。
だって、エレ小母ちゃんの作る料理は美味しい。掃除だってお洗濯だって、どんなメイドロボよりテキパキと。
それでいて、柔らかく笑ってくれるのだ。無敵で、完璧だ。逆らう気も起きない。
子供二人と、大人ではあるが研究に没頭すれば寝食も忘れる成りだけは大きな子供の群れを監督する、完全無欠の指揮官。
シェルもいつかそんな風になるのだろう。
ちょっと怖いけれど、その時も隣にいてくれたらいい。
少年の淡い願望に保護者二人は微妙な顔つきをしたものだ。何故だろう。
逆らおうにも逆らえない、胃袋も首根っこも捕まれた状態を世間では尻に敷かれている等と形容するのだが、
生憎少年はそれがちょっと幸せだと心の底から疑ってなかった。今以て、どうして二人があんな顔をしたのか良く分からない。
シェルとずっと一緒にいたいなんて、まるでプロポーズの様だ。保護者達はそれが気に入らなかったのだろうか。
物言いたげに口を開いて何も言えなくて閉じたりを繰り返した大人二人は、結局何も言わないままだった。
話を聞いた婦人はこやかに笑っていた。背中からちょっと黒いオーラが見えていたような気もするが。
ちなみにその日の食卓は、少年少女の為に特別一品デザートが増えていた。大人二人はこれまた微妙な顔で珈琲をすすっていた。
少年にはそれが不可解ではあったけれど。特別に作ってくれたデザートは美味しかった。
エレ小母ちゃんの作る料理は幸せな気分になる。
健康管理そのほか一切を取り仕切る、にこやかに笑う陽気で厳しい彼女の存在なしには、アゲート家は一日だって立ちゆかないだろう。尊敬だ。
だからいつだって無条件降伏。子供達は、声をそろえて婦人にまずはご挨拶。
「エレおばちゃん。ただいまー」
「だたいまー。おみやげー」
そう言って、少年が差し出したバケツの中には子供の手のひら大の二枚貝。雲丹、海鼠。
豊かな体格の婦人は、エプロンで両手を拭きながら勝手口へ歩いてくると、微笑んで少年の前へかがみ込んだ。
「まあ、重たかったでしょうに。ありがとうございございますハルお坊ちゃま。早速お夕飯にお出ししましょうね」
婦人の言葉に、少年は歓声を上げる。合わせて、少女が両腕に抱えあげた小さな首長竜が、くぴぃ、と鳴いた。
「おやまあ、シードラゴンじゃありませんか」
しゃがんだ婦人と、少女の腕に抱えられた海竜の目と目があった。
ちょうど真正面からお互いをしげしげ観察しあう姿が奇妙だ。海竜の方は、首を伸ばして身まで乗り出して。婦人もその頭をのぞき込む。
横からハリーが疑問を投げかけた。
「シードラゴン?タツノオトシゴなの?」
少女の腕の中の竜と、床に膝をついたままの婦人がそろって少年を見上げた。そして、同時に首をかしげる。
思っても見なかった、と言わんばかりの反応に、聞いた少年の方がちょっとびっくり。
「あらあ。ちょっと良く分かりませんね。
昔っからいるものですから気にしたことないですよ。お父様に聞けば判るんじゃないですか?」
移民が何代も重ねられてきた植民惑星では、伝説と実際の動物とがごちゃ混ぜになっている。
地球では空想の産物とされた竜も、他星系では当たり前のように存在していたりするから銀河は広い。
無星籍の雑多な人種が入り交じる中で暮らしていれば、自然と他の惑星のおとぎ話も耳にする。ある惑星のお伽噺は、他の星に行けばなんてこと無い日常であるのもしばしばだ。
惑星オセアナもまた、その中の一つである。進化の過程で絶滅した種さえ、今なお残る常夏の楽園。
白く輝く太陽の下、茂る緑の熱帯植物。太古の生命が今なお息づく総天然色の博物館。鮮やかな緑に映える、褐色の肌の陽気な住民。
幾つもの映画や小説の舞台となり、高名な芸術家達が幾人もこの惑星を訪れ、居を構えた者も少なくない。
写真家や画家が切り取るこの惑星の風景は、いつだって神秘と命の色に溢れている。
「私が子供の頃ははバナナの皮なんかで網にかかるの待ってたものですよ。
飼い慣らしてゼリーソードの追い込み漁に使ったりするんで、漁師さん達がそこそこの値で引き取ってくれたりね」
「それってドラゴンハント?」
竜狩りといっても、ドラゴンを狩るのではなく、ドラゴンを使った狩りだ。
移民史以前の、この惑星の先住者達が好んで行い、宇宙世紀にも受け継がれたという狩猟形態は、今では滅多に行われなくなった代物である。
当然、ハリーも実際に目にしたことはない。
けれど、その雄々しさと勇壮さに対する憧れは今もオセアナ人の遺伝子の中に受け継がれている。
博物館や科学文化センター、あるいは映画の中で鮮やかに。
波を切り、雲を追い抜く早さで泳ぐ流線型の海竜。
深い碧の中から、長い首をしならせ浮上してくる姿はきっとかっこいいだろう。
口には獲物を咥えて振り回しているかもしれない。
そんな生き物とバナナを分け合うお友達になれるのだ。
少年の目は期待と興奮で輝いた。
「大抵仔竜を捕まえると親もどこか近くにいるものなんですけれどねえ。見かけませんでしたか?」
「いなかったわ。このこ、お母さんとはぐれちゃったの?」
「最近良くない噂を聞きますしねえ。この子も迷子かもしれません」
迷子と言う言葉に、悲愴な顔をした子供達を思いやり、婦人はあえて言葉を濁した。
我が事のように他を思いやれる無垢な心を、傷つけたくなくて。
「ああ、もしかしたら女神さまのお遣いなのかもしれませんよ」
ふんわりと、笑って婦人は海竜の首を撫でた。気持ちよさそうに白い竜は瞳を細めている。
仕事で留守がちな保護者達が不在の間、お手伝いという名目でまとわりつく子供達に、婦人は色んな話を聞かせた物だ。
―――――なかでも少年が一番好きなのは
「これって、ひょっとして、女神様のお話に出てくる竜?」
少年は、少女の腕の中に抱えられた海竜をのぞき込んだ。
それは、この島の女神のお話だ。
波のまにまに揺れる白い竜。女神の瞳は黒真珠。
「そうです、そうです。この島の女神様のお使いの竜ですよ」
洗濯物を干しながら、シャボンの泡を立てて食器を洗いながら。
歌うように教えてくれたのは目の前の婦人だった。
赤い珊瑚の唇が呼べば竜は現れる。真白の竜の瞳は虹色、魚の鱗色。
遠い遠い波間の向うに竜の歌声、波の音。
「この子女神様のお使いなの?海の底の?」
少女も目を瞬いた。腕の中の生き物が、すごく奇特な竜だと聞かされたなら、思わず硬直。
落っこちかけた海竜が、長い首を揺らして鳴いた。
「アゲート島の女神様。竜は女神様のお使いで。海で死んだ恋人の魂をつれて来てくれると言われておりますよ」
「見たことあるの?」
「本当に本人かどうかは知りませんが、小さい頃近所に住んでたお姉さんが竜と一緒に、それこそ恋人みたいに過ごしておりましたよ。
もう、離れちゃ片時も過ごせないって程にねえ」
しみじみと語る婦人の言葉に、子供達は揃って感嘆した。
「じゃあおまえ、女神様のお遣い中なのか?早くお仕事すませて帰らないと心配されてるよなあ」
「お遣い終わったら遊びに来てくれる?」
誰かのところへ死んだ恋人の魂を連れてきたのではないか。待っているヒトがいるのではないのか。
でも、一緒にいて欲しい。色んな思いが綯い交ぜになった目で海竜を見る子供達の姿は実に微笑ましく、エレクトラ婦人は両目を細めた。
「さあ、お二方とも、手を洗ってきてくださいな。ばば特製のバナナジュースを作って差し上げますよ」
返事は、元気の良い歓声だった。
地球系移民がオセアナに持ち込んだ植物の一つであるバナナは、南国のこの惑星にあったのか、すくすくと根を張り生い茂っている。
この惑星の様々な赤やオレンジ原色の果物と一緒にミキサーにかけて作るエレクトラ婦人特製ミックスジュースが子供達は好きだった。
手を洗っていただきます。バナナが入った分、きめ細かな泡が立ち、口当たりが柔らかくて甘い。
皮の方は、シードラゴンのご飯になった。机の端で、サラダボウルに盛られた色とりどりの果物の皮を、白い竜がもそもそ喰んでいる。
「今夜は雲丹リゾットと。バナナの衣揚げも付けてあげますから。楽しみにしててくださいね」
貝は砂抜きしてくださいませ。言われて、子供達はボウルに水を張る。匙で塩をすくい、投下。くるくるかき混ぜて、ぺろりと味見。
「塩っ辛い?」
「塩っ辛ーい」
キャニスターを片手に、匙片手にボウルを囲む子供達の姿は微笑ましい。砂を洗い流した貝をボウルに空けて待つことしばし。
午後の日差しと風に揺れる、水洗いしたビーチサンダル。水を張った盥でうとうととまどろむ竜の横で、目玉と尾を出した貝が、ぺ、っと潮を吹く。
「お父さんが帰ってきたら一緒にご挨拶しようね?」
語りかける少女の声に、ぱたり、海竜の短い尾が揺れた。