北部の王・ベルハイク伯爵③
動揺などしない人だと思っていた。
(だって、人の指先を平然と食べる人なのよ。少し撫でたくらいで、驚くだなんて思わないわよ)
手で隠れて彼の表情は見えなかったが、耳がほんのり赤くなっていたのは、やはり驚いてしまったことを、騎士として恥だと思っているのかもしれない。リナフィアは、もう一度小さな声で「ごめんなさい」と呟くと大人しく前を向いた。リナフィアが、騎士に失礼なことをしてしまったとしょんぼり肩を落としていると、妃殿下とレイスが呼ぶ。
「少し速度を上げますので、しっかりと掴まっていてくださいね」
「え、急に!? 待――っ!」
言うが早いかレイスが手綱をふるえば、リナフィアの待ったは無念にも風に散った。
◆
レイスの華麗なる手綱さばきのおかげで、目的地には一番乗りで到着できた。
「はは、さすが近衛騎士。妃殿下を乗せているとは思えぬ軽やかさですね」
そこへ、ベルハイク伯爵も馬で追いついてくる。
「妃殿下はとても軽いですから」
先に下りたレイスが、リナフィアをふわりと抱えて、丁寧な仕草で馬から下ろす。
「それに、馬の首にしがみつくでもなく、よく耐えられました」
「あ、ありがとう」
はは、とリナフィアは苦笑した。まあ、しがみつく暇もなかったというか、身体が硬直していたというか。すでに国境の防衛を任された騎士団の駐屯地は、目と鼻の先で、リナフィア達は、隣国との国境線まで見渡せる小高い丘にいた。
眼下から奥までじっくりと見渡し、リナフィアは口を開く。
「伯爵、昨夜の返答をこちらでしてもよろしいでしょうか?」
左隣にいた伯爵は「昨夜?」といまいち分かっていない様子。
「どうやって、隣国との小競り合いの被害を抑えるか……という話をしていたかと思うのですが」
そこまで言って、伯爵は「ああ!」と声を上げた。
「まさか、いえ、その……」
彼の動揺からするに、きっとルーベントと同じように、ただの時間稼ぎだと思われていたに違いない。
(それも仕方ないわよね。今まで王妃宮に籠もっていた王妃に、まともな見地なんて誰も期待しないわよ)
だからこそ、今度こそ知らしめる必要がある。
誰が国にとって必要なのかを。
「緩衝地帯を敷かれてはいかがでしょう」
「緩衝地帯ですか?」
リナフィアは腕を上げ、指先でツイと遠くに見える国境線をなぞる。
「国境線ギリギリに敷かれた防衛戦を下げ、その間を緩衝地帯となる特区とするのです」
伯爵の目つきが変わった。
背後で結ばれていた伯爵の手は今、思案に集中するかのように前で組まれている。
「伯爵からの幾たびもの陳情書、全て目を通しました。その中で一点気になったことが」
伯爵が驚きに目を大きくした。
「まさか、あの陳情書を妃殿下が!? しかし、あれは聖騎省の管轄のはずで……」
「役割でないからと、民の声を無視する理由にはなりませんわ」
それに、放っておいても勝手に書類が流れてくるのだ。ある意味、国情の把握は楽である。
リナフィアは驚く伯爵をよそに話を続ける。
「確かに度々侵害されてはいるようですが、領民への被害は一度もないとか」
「はい。相手は我らのような騎士というわけでもなく、ごろつきや傭兵崩ればかりなのですが、不思議なことに民へは一切手を出さないようで。妙に規律があるというか……不思議な者たちなのです」
「つまり、彼らも一般市民を巻き込んでまでの争いにはしたくないと言うことでしょう。なので、この緩衝地帯策も活きるかと」
もう伯爵は口を挟んでこなかった。
それどころが、早く続きを目がうるさいくらいに訴えてくる。
「特別区として、国境付近を免税商業特区にするのです」
「しかし、いくら免税と言っても、このような危ない場所で商売をしたがる者などいるでしょうか」
代わりに、リナフィアを挟んで伯爵の反対側で聞いていたレイスが、疑問に首を傾げていた。彼も騎士団所属ということで気になる話なのだろう。
「いますよ。いつの世にも戦商売というものがあるように、商人は案外と強かなのですよ。例えば、娼婦達。彼女達は戦場があれば、好んで向かいます。街にある店で待っているよりずっと多くの稼ぎが得られるからです。それと、交易商人。国境から近い場所で商売を行えることは、それだけ輸送費が抑えられますし、ノーディレイ側の情報も集めやすくなる。情報は鮮度が命ですからね」
なるほど、と二人は頷いていた。
「そして、ここが要点です。この特区を自国民に向けてだけでなく、ノーディレイ側にも解放するのです」
「ノーディレイ側にも!? ということは、特区は両国の民が混在していると!?」




