どうして私は泣いているの
バルコニーの入り口に立っていたのは、見覚えのある顔の近衛兵だった。
一度しかまみえていないのに覚えていたのは、彼を彩る色が、バルコニーの向こうに広がる夜空と同じだったから。
近衛兵はしっかりとリナフィアの目を捉えると、次の瞬間、胸に手を当て丁寧な挙措で腰を折る。
「驚かせてしまい申し訳ありません、妃殿下。近衛師団第一隊所属のレイスと申します」
レイスと名乗った近衛兵は顔を上げると、ツカツカとリナフィアとの距離を縮める。
何事か、と思いリナフィアが身を硬くして身構えれば、次の瞬間、白い物を差し出してきた。
まじまじと観察すれば、彼の手に乗っているのが、指の形に添うほどに柔らかなハンカチだと分かる。
「先日は、ありがとうございました」
「これは私の……」
確か、怪我していた彼の手に巻いたものだったはず。
「まあ、わざわざ……」
「丁寧にありがとう」と、ハンカチを受け取ろうと手を差し出したリナフィアだが、しかしレイスの手はリナフィアから遠ざかった。
「え? あの……」
「本当は、お借りしたハンカチを返しに来たのですが」
レイスはハンカチを握っていないほうの手を懐へ忍ばせると、取り出した新たなハンカチをリナフィアへと差し出した。
薄水色の清潔感のあるハンカチ。
「その涙を拭うのに、あなた自身のハンカチは相応しくありませんね。どうか、こちらをお使いください」
そこで初めて、リナフィアは自分が泣いていたことに気付いた。
頬に触れれば確かに指先が濡れていた。
(うそ……どうして? もしかして私、ルーベントの言葉を悲しく思ったの?)
そんな馬鹿な。
濡れた指先を信じられないものを見るような目で、ぼうっと眺めていれば、「失礼します」と指先を薄水色で拭われる。
「中に戻るのはお辛いとは思いますが、このままでは本当にお身体を壊してしまいます」
拭い終わった手に、握らせるようにしてハンカチ渡され、リナフィアはレイスとハンカチとを交互に見やった。どうやら彼は、自分がバルコニーにいるのはホールの空気に耐えられないからと思ったようだ。向けられた憐れみの目を見るに、泣いていた理由も勘違いしていそうだ。夫が他の女を連れているの見てショックで泣いていた――といったところだろうか。
(勘違いしても仕方ないわよね。私も一瞬、自分が悲しんでいるのかと思ったもの)
しかし、いくら探してみても、悲しみなどという感情はまったく胸の中にはなかった。
そこで気付いたのだ。
この涙の意味を。
(これは、昔の私が憐れで、情けなく思っての涙ね。どうしてああも一途にルーベントのことを信じていたのかしら。自分の盲目さと愚かさに腹が立つわ)
そんな、己への怒りにも似た感情から流れた涙だったが、しかし、勝手に勘違いしてくれるのならありがたいものだ。今後のことを考えれば、なるべく敵はつくりたくない。同情を寄せてもらえるのなら、わざわざ誤解を解く必要もないだろう。
リナフィアは借りたハンカチで涙の跡を拭った。
「ありがとう、レイス卿」
しかし、近衛兵と言えど異性と長々と二人きりでいるのはまずい。
ルーベント達に咎める理由など与えたくはない。
眉間に皺をよせ、綺麗な顔を心配そうに顰める彼に目礼すると、「それでは」とリナフィアはひらりと裾を翻し、ホールへと戻ろうとした。
「妃殿下は――」
が、また背に声を掛けられ、リナフィアは足を止める。
「陛下のことをどのように思っていらっしゃるのでしょうか」
「……どういう意味かしら」
第一近衛師団といったら、ルーベントの護衛兵もやっているところ。
(もしかして、何かを計られているのかしら。まさか。ルーベントの回し者?)
リナフィアは警戒を声音だけでなく眉間にもひそめた。
「お気分を害してしまったのなら申し訳ありません。ただ、私は職務がら陛下のお側に侍ることが多いのですが……特にここ最近は、私共ですら目に余ることが多く……」
申し訳なさそうに伏し目がちになって言うレイスに、リナフィアは密かに息を吐いた。
(なるほど)
大方、マリアが邪魔で仕事にならないのだろう。王妃として注意してほしいと言いたいわけだ。
――私がマリアの存在を容認……もしくは放置していると思っているのね。
確かに、王を諫めるのも王妃の役目ではある。できる限り関わりたくはなかったが、臣下にそのように思われているとあっては、王妃としての立場がなくなるというもの。
「分かったわ。陛下へは私から話すわ。仕えてくれている者にそのように思わせてしまって申し訳ないわね」
リナフィアは小首を傾げ、淡く苦笑した。
(本当、あんな王の元で生きる民が可哀想でならないわ)
「いえ、過ぎたことを言いました」
「構わないわ。こうして忠言を言ってもらえるということは、まだ見放されていないということだもの……感謝します、レイス卿」
リナフィアは今度は苦みの消えた微笑のみをレイスに送ると、ホールの中へと姿をくらませた。
ガラス戸はパタンと静かに閉まり、バルコニーにはレイスだけが残される。
レイスは返すことのできなかった白いハンカチを見つめ、呟いた。
「馬鹿な王だ……」
掌に沿うほど柔らかな白いハンカチは、夜の中で一際眩しく輝くようだった。




