《彼岸の席 ―約束の川辺にて―》
この作品《彼岸の席》は、秋の彼岸を舞台にした短編ホラーです。
灯籠流し、彼岸花、秋祭り――。
懐かしさと共に現れるのは“用意された自分の席”。
そこに座れば戻れないかもしれない、そんな恐怖を描きました。
これまでの短編《水底の約束》《水の客》ともゆるやかに繋がる物語です。
秋の夜長に、ひとしずくの冷たさをどうぞ。
川沿いの土手に、提灯が並んでいた。
秋の彼岸、灯籠流しの夜だ。
涼しい風に乗って、すすきの穂がざわりと揺れ、彼岸花の赤が群れ咲いている。
久しぶりに帰省した俺は、橋のたもとで立ち止まった。
川面には灯籠がいくつも浮かび、火が波に揺れている。
その光の中に、一つだけ――見覚えのある名前が目に入った。
〈江島 えいじ〉
俺の名前だった。
「……なんだ、これ」
誰かのいたずらだろうか。
けれど灯籠は、ほかのどれよりも穏やかに、真ん中を漂っていく。
まるで“俺のための席”が用意されているみたいに。
耳の奥で、水音がした。
ちゃぷ……ちゃぷ……と、ゆっくり寄せては返す音。
その調子は、どこか聞き覚えがある。
幼い頃、川に流されかけたとき、天から聞こえた祖父の声。
スナックで霊を受け入れてしまった夜、胸に溜まった冷たい水。
過去に閉じ込めてきた“水の記憶”が、秋の川風に呼び覚まされていく。
俺は思わず、川の灯籠を追いかけた。
その先に、用意された“彼岸の席”がある気がしてならなかった。
川を追って歩くと、土手の上には夜店が並んでいた。
金魚すくい、綿あめ、焼きとうもろこし……だが、どこも妙に人影が少ない。
まるで客が見えない席にだけ座っているようで、屋台の人間はひとりで黙々と焼いたり掬ったりしている。
「おにいさん、寄ってかないかい」
たこ焼き屋の親父に声をかけられた。
だが目線は、俺ではなく隣の空席に注がれていた。
椅子の上には、確かに誰かが腰かけているかのようなへこみ。
熱々の舟盛りが、そこにそっと置かれた。
「……見えない客、か」
俺の背筋が冷えた。
スナックで“水の客”が座ったあの夜の感覚が蘇る。
それと同じ空気が、この秋祭り全体を覆っていた。
◇
やがて、舞台のある広場に出た。
太鼓の音が鳴り響き、子どもたちが踊りを披露している。
周囲にはゴザが敷かれ、家族連れが座って見物していた。
――その中に、ぽつんと空いた席があった。
提灯の明かりがそこだけ薄暗く、赤い彼岸花が風に散っている。
座布団には俺の名前が墨で記されていた。
〈江島えいじ〉。
喉が詰まり、呼吸が浅くなる。
誰がこんなものを用意した?
なぜ俺のための“席”が、彼岸の夜にある?
川から聞こえていた水音が、鼓動に重なっていく。
ちゃぷ……ちゃぷ……。
俺は引き寄せられるように、その席の前に立っていた。
風が止み、提灯の炎だけが揺れた。
その瞬間、誰かの声が耳元で囁いた。
「――座れよ。約束だろう?」
俺は座布団の前で立ち尽くしていた。
膝が勝手に折れそうになる。
腰を下ろせば、戻れない――そんな直感が全身を締めつけていた。
「座れ」
囁きは川風とともに繰り返される。
声は一つではなかった。
低く笑う声、幼い笑い声、女のすすり泣き。
それらが水面に映った炎のように重なり、俺の名を呼んでいた。
――六年生の夏、空き家で交わした約束。
――場末のスナックで吸い込んだ見えない客。
忘れたはずのものが、ひとつに混じって押し寄せる。
「俺は……」
足元の地面がじわりと濡れていく。
祭りのゴザが、冷たい水を吸って沈み始めた。
周囲の人々は誰一人気づかない。
太鼓も踊りも続いているのに、俺の席の周囲だけが異界に沈み込む。
俺は叫んだ。
「座らない! 俺はまだ、約束を果たしていない!」
すると炎が大きく揺れ、提灯がはじけ飛んだ。
闇の中に、水に濡れた無数の影が立ち上がる。
子どもの姿、客の姿、誰ともつかぬ影が俺を囲み――その中心に、一人の影が浮かび上がった。
年老いた男の影。
懐かしい声がした。
――よく言ったな。
祖父の声だった。
あの日、川で俺を救った声。
その影はゆっくりと頷くと、周囲の影を押し返すように広げた。
「えいじ」
ソラ、カイ、リク――子どもたちの名が、風に乗って届いた。
彼らの笑い声、呼ぶ声が、今の俺を繋ぎ止める。
俺は深く息を吸い、声を絞り出した。
「俺の席は――まだ、あっちにある!」
その瞬間、足元の水が弾け、座布団は川へ流れ落ちた。
灯籠とともに、俺の名前を刻んだ“席”は闇の中に溶け、彼岸花の赤だけを残して消えていった。
◇
気づけば、俺は土手に立っていた。
祭りのざわめきは何事もなく続いている。
太鼓の音、笑い声、屋台の匂い。
空を見上げれば、彼岸花の花びらが風に舞っていた。
胸の奥に、まだ水の冷たさが残っている。
だが――それはもう、俺を沈めるものではなかった。
彼岸の席は消え、俺は生者の側に立っている。
川面に浮かぶ灯籠の群れが遠ざかる。
その中に、一つだけ小さく揺れる灯籠があった。
俺の名前は消え、代わりに“ありがとう”と墨で記されていた。
俺は手を合わせ、頭を垂れた。
風がすすきを揺らし、祖父の声が遠くで囁いた気がした。
――もう、大丈夫だ。
秋の夜気が、ゆっくりと肺を満たした。
終
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
《彼岸の席》は、
「忘れた約束」「見えない客」――過去二作のテーマを引き継ぎ、
秋の彼岸に交わる怪異として描きました。
タイトルにある“席”は、亡者に用意されたものか、それとも生者に突きつけられた選択か。
読んでくださった方の胸に、それぞれの答えが残れば嬉しいです。
感想・レビューなどでご意見をいただけると励みになります。
次回も、また季節に寄り添ったホラーをお届けできればと思います。
――天坂透真