水のおと
父が失踪してから、間もなく七年になる。
ようやく死亡届を出せるから、お盆に法要をするので予定を空けておくように。
母はそう言って仕事に出かけていった。
異常気象の暑さのせいで、午前だというのに蝉すらも鳴いていない。エアコン室外機の小うるさい音だけがする庭で、水撒きをするのが私の仕事だ。
母はガーデニングが趣味で、庭にはたくさん植木鉢が並んでいる。夏場は朝晩水やりをしないと枯れてしまうからと、朝は私に任されている。
ペチュニア、ポーチュラカ、千日紅、百日草……色鮮やかな花々が、庭の角に設えられたプランター台に並べられていて、なかなかの圧巻だ。この仕事のせいで、朝から汗だくになってシャワーを浴びなければならないのが面倒だが、この花々が元気をなくすのを見たくないから、晴れの日は、同級生にはとても見せられないようなダサい帽子を被ってホースを握る。
そうしていると、花のひとつひとつに愛着らしいものが湧いてくるのだから、私にもガーデニングの素質があるのかもしれない。
今日も「いい感じに咲いてるね」「明日はこの蕾が咲くのかな」などと独り言を言いながら水やりを終え、ホースを片付けた。そして「ふう」と腰を伸ばして、首に掛けたタオルで汗を拭っていた時だった。
――ポチョン。
水滴が反響するような音がして、私は辺りを見渡した。つい先程まで水やりをしていたのだから、水滴の音がするのはおかしくない。植木鉢の底穴から滴るまで、たっぷりと土に水を染み込ませるのだから当然だ。
けれど、今の音はそれとは少し違っていた。狭い空間に反響するような音。その音を、私は聞いたことがあった。
――水琴窟。
母と一緒に出掛けた日本庭園に造られていて、手水鉢の水を垂らして音を楽しんだことがある。
それと同じような音だと、私は思った。
ガーデニングにハマりすぎた母が、いつの間にか水琴窟を造ったのだろうか?
私はそう考えて庭を見回す。しかし、母が植える花は洋風のものばかりで、水琴窟は似合わない。それに、花壇でなくわざわざ植木鉢にしている理由が「土を耕すのが大変だから」と言う母が、水琴窟を造るほどの穴を掘るとも思えない。
ならば、今の音はどこからしたのだろうか?
――ポチョン。
耳を澄ませていると、再び音がした。
その時になって私は気付いた。エアコンは自動で風量を調整するから、室内に人のいないのを感知して運転を一時的に停止したのだ。そのため、真夏の庭は恐ろしいほどに静かだった。
だから、水滴ほどの小さな音が聞こえたのだろう。
――ポチョン。
三度目の音で、私はその音がプランター台の方から聞こえるのに気付いた。
プランター台は、庭の角に置かれた大きな植木鉢を囲むように、扇形に並んでいる。大きな植木鉢にはサルビアの花が植えられ、燃えるような赤い花を揺らしていた。
それを見ていて、私はふと妙な感覚に囚われた。
……まるで祭壇みたい。
サルビアが燃えるロウソクで、色鮮やかな花々は祭壇に供えられた供花……そんな風に見えたのだ。
それから、私は常々奇妙に思っていたことがあった。
母は夏に咲く花しか植えないのだ。
植木鉢なんだから、四季ごとに植え替えればいいものを、母は毎年、同じ花しか植えない。けれど、花の時期が終わっても「苗を育てなきゃ」と水やりは欠かさないのだ。
夕方の水やりは母の仕事。
仕事から帰ってくると、まず庭に行ってホースを手に取る。そして植木鉢に語り掛けながら水をやる。
特に、真ん中のサルビアには念入りに水をやる。「水を切らしてはいけない花だから」と、私にも特にしっかり水をやるよう言っていた。
――ポチョン。
四たび聞こえたその音は、ちょうどサルビアの真下から聞こえたような気がした。
よくよく考えれば、私はプランター台を置かれる前の庭を覚えていない。確か父が失踪したすぐ後から、母がガーデニングを始めたのは覚えている。
父はどケチで、「花なんか何の役にも立たない」と、母が買って来た花の鉢を割ってしまうような人だった。だから、母がガーデニングを始めたのも、父の横暴への反動があったのだろうと思っている。
……そういえば、あの時父が割った花の鉢は、サルビアだった気がする。
私はそれを思い出してゾッと肩を竦ませた。このプランター台の花々に、そういう母の思いが込められているとしたら、私はそれを手伝っていることになる。
どうにも気分が悪い。さっさと部屋に戻ってシャワーを浴びよう……そう思うものの、私は視線をサルビアの花から外せないでいた。
――あの下には、何があるんだろう?
プランター台に囲まれた上でも、一段高くなっている大きな植木鉢。あんな音がするからには、あの下には土でない何かがあるはずだ。
私はしばらく、燃え盛る炎のような花を見入った後、プランター台に足を向けた。
植木鉢をひとつひとつ、プランター台から下ろしていく。露わになったアルミの台を除けると、大きな植木鉢の姿が露わになった。
私はそれを初めて見た。素焼きのどうということもない植木鉢なのだが、長年水やりをされてきた表面は、苔で濃い緑に汚れていた。
植木鉢はいくつかのレンガを並べた上に置かれ、その下にはコンクリートの板があった。側溝の蓋のようなやつだ。
その正体を見た私は拍子抜けした。多分、雨水桝だろう。その上に植木鉢を置いたものだから、水やりで垂れた水が枡の中で響いたのだ。
そうと分かればさっさと涼しい部屋に入りたい。私は若干の罪悪感を誤魔化すように、手早くプランター台を元に戻そうとしたのだが――
――――ゴソッ。
何かが蠢くような音がして、私はアルミの台を抱えたままひっくり返った。土の上にしりもちをついたまま、私は動けなくなった。
視線の先には、雨水枡の蓋――間違いなく、あの中から聞こえた。
あの中に、何かがいる。
アルミの台を盾のように構えたまま、私は見開いた目を植木鉢の下に据えていた。体が硬直しているが、次に何か奇妙な気配がすれば、大声を上げて跳ね起きる準備はできていた。
浅くなった呼吸を何度も繰り返す。じっとりとした汗が全身にへばりついて、シャツを不快に濡らしている。
何とかゴクンと喉を鳴らして、私はようやく体を動かした。そっとアルミの台を地面に置いて、気配を殺すように身を起こす……雨水枡の中のなにかに悟られないように。
そして私は、苔むした植木鉢に手を掛けた。持ち上げられる大きさではないから、傾けてずらすのが精いっぱいだ。レンガの上で底を転がすようにすると、雨水枡の蓋が姿を見せた。
コンクリートの正方形の中央に、小さな丸い穴がある。
私は植木鉢をそっとレンガの上に置く。バランスをとって自立する位置で手を離し、私はコンクリートの蓋に顔を近付けた。
七年ぶりに光を浴びた小さな穴を覗くために。
――――――――
夕方、帰宅した母はすぐに庭に向かう。そしてすぐに部屋に戻って私に声を掛けた。
「植木鉢、並べ替えた?」
ギクッとしたのを悟られないように、私は深呼吸してから顔を上げた。
「花の色のバランス的に、この方が可愛くない? それより……」
朝からずっと考えていたセリフは、干乾びたような声になった。
「――お父さん、どこに行ったんだと思う?」
母は一瞬、これまでに見たことがない険しい表情をした後、
「それを知ってたら、こんなに苦労はしないわよ」
と笑って、庭に戻った。
その後ろ姿を見送ってから、私はテーブルのスマホを手に取ったのだが、文字が読めないほど手が震えるのを抑えられなかった。
――七年ぶりに光を浴びた小さな穴から見上げていた、血走った眼球。
そんなはずがない。人間が七年もの間、水だけで生きているなんてことがあるわけがない。
きっとあれは、人間ではない何か――いや、気のせいだ。異常気象が見せた白昼夢なんだ。
――その翌日。
母が仕事に行った後、私は庭に出た。
そして再びプランター台を退かすと、雨水桝の蓋の穴にホースの先を突っ込んで、水栓を回す。
サルビアの花言葉は「家族愛」。
あなたが割った花の鉢は、私が選んだプレゼントだったのです。
そのまま部屋に戻り、私は出掛けた。
その日の夕方。
帰宅すると、母は水浸しになった庭に立って笑っていた。