実戦
「‥‥‥行ってきます」
アベルは夜明けに、孤児院を飛び出していく。
用意されていた複数のパンと、革袋を背中に背負いながら。
(確かここをまっすぐ走っていけば‥‥‥)
アベルの中で、目的地は決まっていた。物心つく前から過ごした場所。なんとなく、周辺の事は感覚で把握していた。
「ーーーっ」
走っていたアベルは、少しだけ息を乱す。
視界の先に映る‥‥‥小さな花畑。セリカとの思い出が詰まった‥‥‥大切な場所。
だが大半が既に荒れていて、花弁が風で靡いている。
「‥‥‥行ってきます」
アベルは横を走りながら、視界に映る花畑へ声を出す。無性に声を掛けたくなり、通り過ぎるまで見続けた。
「もしかしたら、もう見れなくなるかもしれない‥‥‥だから、また元気に咲いてほしい」
それは、これから行う計画の‥‥‥失敗を考慮した言葉だった。
ダラス森。
孤児院から数時間歩いた先にある‥‥‥深い森。
てっぺんが見えないほどの高さがある木が、無数に無造作に生えている。
太陽の光が殆ど当たらないほどの、森林。
(‥‥‥遠くからセリカと見た事はあったけど、こうやって入る事はなかった、はず)
普通は9歳の少年が、気軽に足を踏み込んでいい場所では無い。アベル自身、中に入った事で痛いほど理解した。
「でも‥‥‥魔物は暗く、ジメジメした場所を好む。孤児院にあった本に、確かそう書いてた‥‥‥」
だがアベルは独り言を呟きながら、慎重に森の中を進んでいく。
こんな深い森の中を無策で入れば、迷うのは確実。
「‥‥‥ふぅ」
そこで、アベルは魔力を活用することにした。
定期的に、落ちている葉に自分の魔力を流すのだ。
これを、ダラス森に入った時から繰り返している。
「よし、遠くても僕の魔力を感じる。入り口からここまで、直進できてる‥‥‥」
魔力は力の源。
アベルは魔力の流れを理解し、制御する技術がある。そのため、自分の魔力なら遠くても感じ取る事ができる。
森で迷わないための、アベルにとっての命綱。
「ガルルっ‥‥‥」
そして、その命綱は‥‥‥食べられていた。
「っ‥‥‥!!」
後ろから聞こえた謎の声に、アベルは息を止めて振り返る。
「おっ、オオカミっ‥‥‥!!!」
少し先にはーーー葉を食べて喉を鳴らす、灰色の狼。アベルが魔力を通した葉を、食べている。
魔力は、遠くでも感じ取れる。
アベルが魔力を制御しようと特訓したのは、自分を取り押さえた男の魔力を感じたから。
つまり‥‥‥他者にも、自分の魔力を感じ取られる。
「あ、あ‥‥‥!!」
アベルは失念していた。森で迷わない事に意識を向けすぎて、肝心な事に気付いていなかった。
魔力を残す事で、自分の居場所を周囲に知らせていたことに。
「ハッ、ハッ、ハッ」
狼が息を乱しながら葉を食べ終わり、アベルを見つめる。その目付きは‥‥‥あまりにも鋭い。
その狼は、アベルを簡単に押し倒せそうなほどに大きかった。
「ーーーうぁぁぁぁッ!!!?」
気付けば、アベルは走り出した。自分よりも大きい灰色の狼が、獲物を見つけた目をしていた。
そして、後ろから聞こえるーーー軽やかな足音。
「ヴぁぁぁぁぁぁッッ!!?」
恐怖心が募っていく。叫ばずにはいられない。
人間を遥かに超える俊足。強靭な足。異様に発達した2本の牙。そして、魔物特有の禍々しい気配。
『ケケケケケ』
思い出す。自分とセリカを襲った、異形な生物を思い出す。初めて魔物と対峙した時を、思い出す。
(あんな動きの速い狼なんて無理だっ‥‥‥!! もっと弱くて、倒せそうな魔物じゃないとーーー)
「うぁッ!?」
必死に走っていたアベルは、木の根に足を取られ‥‥‥地面を転がる。
「くそっ、ふざけーーー!!?」
愚痴をこぼした瞬間ーーー狼が飛び付いてきた。
「バウッ、ハッ、ハッッ!!」
激しい息遣いと共に、狼が頭を突き出して口を広げる。口の中はーーー真っ赤に染まっていた。
「うぁぁぁぁッ!!!?」
アベルは咄嗟に両手を前に出し、狼の頭を必死に押し返そうとする。だが狼の力は凄まじく、激しく頭を振りながら跳ね除けてくる。
「グォァッ!!!」
狼の前足も激しく動くことで、アベルの両腕に爪が食い込み、引き裂かされていく。
「いっーーーなんでこんな時にッ!!!?」
突然、アベルは歯を食いしばりながら大声で叫んでいた。目の前の狼だけでなく、別の事にも意識が向く。
ーーー左肩が鈍く痛み、燃えるように熱いのだ。
「ざけんなッ!!!? なんで僕がこんな目にッ!!?」
もう、何が何だか分からなくなっていた。狼に襲われ、左肩の激痛にも襲われる‥‥‥極限状態。
気が狂いそうになり、必死に叫びながら両手に力を込める。
「ゔぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!?」
不意にーーー狼の頭が軽くなった。
「キャウッ!!?」
狼を右足で蹴り上げた事に、アベルは気付いていない。
高い声を出しながら、狼が地面に落ちて暴れ出す。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ」
必死に立ち上がったアベルは左肩を押さえ、狼を見下ろしていた。
「そうだっ‥‥‥さっきは全力で右足に力を込めたっ。無意識に魔力を込めて蹴ってたんだ!!」
アベルは大声で自問自答しながら、右手を勢いよく振り下ろす。
「バウッ!!!」
だが、立ち上がった狼が身体を翻して距離を取った。アベルの左拳が、地面を虚しく叩く。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ‥‥‥」
アベルは必死に呼吸しながら、狼から目を離さずに姿勢を低く保つ。魔力を、両手足へ集める。
(落ち着けっ、さっきの蹴りは通ってたっ‥‥‥魔力の身体強化も役に立ってるッ!!)
状況を打開するだけの、力はある。だが、倒す想像が出来ない。
「はぁっ、はぁっ」
狼の異形さと剥き出しの殺傷力に、助かりたいという雑念が湧き上がってしまう。
「づッ!?」
すると、左肩に鋭い痛みが走る。アベルは思わず、左肩に目を向けてしまう。
「ーーーガァッ!!!」
それが、狼に隙を与える事になった。強靭な足で瞬時に距離を詰めてくる狼。
「ーーーぁっ」
アベルが前を向いた瞬間にはもう、狼が口を開けて飛びかかってきていた。
「くっ!!?」
咄嗟に、半歩仰け反って右手を前に出す。狼の口がーーー右腕を挟むように、勢いよく閉じられた。
「ぐぉぁぁぁぁッ!!!?」
迸る出血と針を数本刺されたような鋭い痛みに、アベルは絶叫する。突進の勢いに押され、背中から倒れそうになる。
『ーーーアベルから離れてッ!!!』
腕を噛まれた事で、脳裏によぎった。必死に身体を動かして助けてくれた‥‥‥セリカが。
勇気を振り絞ったはずの、彼女の姿が。
「っ‥‥‥ヴァァァァッ!!!!」
アベルは絶叫しながら両足で踏ん張り、倒れる事なく立ち尽くす。今も右腕に噛み付く狼を、見下ろす。
「アぁぁぁぁぁぁッ!!!」
渾身の力を込めた左拳を、狼の脳天に叩き落とす。
「キャゥッ!!?」
狼は呻き声を上げ、アベルの右腕から口を離す。その瞬間を、アベルは見逃さない。
「ーーーゔァァァァッ!!!」
右足に魔力を集中させ、狼の勢いよく蹴り上げた。
「キャンッ」
小さな呻き声が聞こえると、吹き飛んだ狼が地面を転がる。
「はぁっ、はぁっ‥‥‥ラぁぁッッ!!!」
アベルは無我夢中で歩き寄り、倒れた狼に‥‥‥左拳を振り下ろす。
「ギャっ、ゥ‥‥‥」
黒い血が頭から飛び散り、微かな声を響かせる。
そして灰色の狼は‥‥‥微塵も動かなくなった。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ‥‥‥」
アベルは無意識に両足が脱力し、その場に崩れ込んで息を乱す。黒い血が自分の金髪に付いていることに、アベルは気付かない。
「や、やった‥‥‥魔物を倒せたっ‥‥‥!!」
9歳にして、単独で魔物討伐を成し遂げた。
その確かな達成感と手応えを感じて、アベルは喜びを噛み締める。
「ーーーそこで何してるんだ!!」
アベルは目を見開いて、息を止める。
「子ども‥‥‥?」
「マジかよ‥‥‥なんでこんな森に」
背後から聞こえた声と、複数の足音によって。




