第3話 ゼロからのスタートライン
数週間後、期待と、それと同じくらいの不安を胸に抱え、アミティは再びマルス王立騎士養成学院の荘厳な門をくぐった。あの日、死刑宣告を覚悟して訪れた場所が、今日から自分の学び舎になる。まだ実感が湧かず、ふわふわとした心地だった。
門の前まで見送りに来てくれた親父さんは、アミティの肩を力強く叩いた。
「いいか、アミティ。お前はお前だ。不器用だろうがなんだろうが、やらかした分だけ、何か掴んでこい。それと、あんまり派手に爆発させるなよ。弁償が大変だからな」
「う…善処します…」
いつもの軽口に、少しだけ涙腺が緩む。心配そうな、でもどこか誇らしげな親父さんの顔を見て、アミティは改めて気を引き締めた。ここで頑張らなければ、親父さんにも、そして自分に期待してくれたミランディア教官たちにも顔向けできない。
真新しい、少しサイズの大きい制服に身を包み、アミティは新入生が集まる大講堂へと向かった。高い天井、ステンドグラスから差し込む厳かな光、そしてずらりと並んだ自分と同じ年頃の少年少女たち。そのほとんどが、仕立ての良い服を着こなし、自信に満ちた立ち居振る舞いをしている。明らかに裕福な貴族の子弟や、地方の名家から来たであろう秀才たちだ。アミティのような、王都近郊の魔導具屋の、しかも孤児という出自の者は、見渡す限り他にいそうもなかった。
「あら、見て。あの子じゃない?市場で変な鳥を暴れさせたっていう…」
「へえ、あんな子がよく入学できたわね。コネかしら?」
相変わらず、ひそひそと囁かれる声が、嫌でも耳に入ってくる。ビッグピヨ騒動の噂は、尾ひれがついて広まっているらしかった。入学テストでの高得点(と壊れた杖)のことも、一部では知られているのかもしれない。好奇と、侮蔑の入り混じった視線に晒され、アミティは顔から火が出る思いで俯いた。場違いだ。完全に浮いている。入学できたのは嬉しいけれど、この先やっていけるのだろうか。早くも心が折れそうだった。
やがて、講堂の壇上に、見覚えのある二人の人物が姿を現した。ミランディア教官とガルドリック教官だ。凛としたミランディアの姿と、岩のように厳ついガルドリックの威圧感に、騒がしかった講堂が一瞬で静まり返る。
ミランディアが、穏やかながらも芯のある声で話し始めた。
「新入生の皆さん、マルス王立騎士養成学院へようこそ。私は教官のミランディア。隣は同じく教官のガルドリックです。今日から皆さんは、王国の未来を担う騎士候補生として、ここで知識と技術、そして騎士としての精神を学んでいくことになります」
アカデミーの理念、厳しい訓練、そして卒業後に待つ騎士団への道。ミランディアの言葉は、新入生たちの士気を高揚させた。しかしアミティは、その輝かしい未来像の中に、自分の姿をうまく思い描けずにいた。
続いて、クラス分けが発表された。と言っても、アカデミーのクラスはそれほど重要な意味を持つものではない。メンバーの構成が重要となる実技や訓練は、別途編成される少人数の班やグループによって行われるからだ。クラスのメンバーは幅広い面々だが、基本的に座学の授業でしか顔を合わせない。
最初の授業は、魔導理論の基礎。担当はミランディア教官だった。
「魔力とは何か、その源流、属性、そして我々がどのようにそれを認識し、利用してきたか…」
教科書を開き、ミランディアの講義に耳を傾ける。親父さんの店で、独学で魔導具の設計理論をかじっていたアミティにとって、理論分野は比較的得意なはずだった。しかし、周囲の生徒たちの理解度の速さ、そして当然のように飛び交う専門用語に、アミティは早くも圧倒された。彼らは幼い頃から、家庭教師などについて専門的な教育を受けてきたのだろう。自分の知識が、いかに断片的で偏っていたかを痛感させられた。
隣の席に座った、ブロンドの髪の、いかにも貴族らしい涼やかな顔立ちの少女が、アミティが教科書の特定の箇所で戸惑っているのに気づいたのか、小さく囁いた。
「ここは、第五元素論におけるエーテル流の概念と関連付けて考えると分かるはずよ。…もしかしてあなた、基礎が曖昧なのかしら?」
親切心からなのか、それとも単なる知識のひけらかしか。アミティはどぎまぎしながら「あ、ありがとう…」と答えるのが精一杯だった。
午後は、実技訓練。担当はガルドリック教官だった。広い訓練場に集められた生徒たちは、まず基礎中の基礎である、自身の魔力を体外に放出し、指定された場所に集める練習から始めた。
「いいか! 魔力制御は全ての基本だ! これができん者は騎士にはなれん! まずは手のひらに、小さな魔力球を生成し、維持しろ!」
ガルドリックの檄が飛ぶ。周囲の生徒たちは、多少の差はあれど、すぐに淡い光の球を手のひらに作り出した。大きさや安定性にばらつきはあるが、形にはなっている。
しかし、アミティは違った。入学テストの時と同じだ。どうやって魔力を「出す」のか、その感覚が掴めない。ミランディアに教わったように、下っ腹に力を込め、意識を集中する。「出ろ、出ろ…!」念じれば念じるほど、焦りばかりが募る。
「そこ、アミティ・ペブルズ! 何をやっている!」
ガルドリックの鋭い視線がアミティを捉えた。アミティはびくりと肩を震わせ、さらにパニックになる。
(落ち着け、落ち着け私…! あの時のように、杖をイメージして…いや、今は杖はないんだから…!)
必死に魔力を引き出そうとした瞬間だった。
バチッ!!
まただ。静電気のような衝撃と共に、アミティの手のひらから、制御不能の小さな火花が飛び散った。それは隣で練習していた生徒の足元でパチパチと音を立て、その生徒は「うわっ!」と声を上げて飛びのいた。
「…何だ、今の火花は」
ガルドリックが眉間に深い皺を寄せ、アミティに近づいてくる。
「申し訳ありません! わ、わざとじゃ…」
「分かっている。だが、魔力制御どころか、放出のコントロールすらできていないではないか。テストの時のあの数値は何だったんだ?」
ガルドリックの声には、呆れと、わずかな失望の色が混じっていた。周囲からは、クスクスと笑う声や、「やっぱり、まぐれだったんだ?」「暴走しないと魔力が出ないんじゃい?」といった囁き声が聞こえてくる。アミティは羞恥と自己嫌悪で、顔を上げられなかった。
その日の訓練は、アミティにとって散々な結果に終わった。他の生徒が基本的な魔力操作を習得していく中、自分だけが全く進歩せず、むしろ意図しない形で魔力を暴発させてしまう。不器用さは、魔導具の組み立てだけでなく、自身の魔力コントロールにおいても致命的だった。
授業の後、アミティはミランディア教官に呼び出された。
「アミティさん、今日の訓練の報告はガルドリック教官から聞きました」
教官室で、ミランディアは困ったような、しかし冷静な目でアミティを見つめた。
「入学テストの結果は、あなたの潜在能力の高さを示唆するものでした。しかし、それはあくまでポテンシャルです。今のあなたは、その力を全く制御できていない。基礎が、あまりにも欠けています」
厳しい指摘だった。分かっていたことだが、改めて突きつけられると胸が痛む。
「いまの状態でアカデミーの授業についていくのは、正直、かなり困難でしょう。他の生徒たちは、あなたよりもずっと前から訓練を積んでいます」
ミランディアは続けた。
「ですが、私たちはあなたの可能性を信じて、ここに招き入れたのです。あの市場での騒動を収めたあなたの発想力、そしてテストで見せた爆発的な魔力。それは磨けば、他の誰にもない武器になるはずです」
ミランディアは一冊の古い本をアミティに差し出した。
「これは、魔力制御の基礎理論と、自己鍛錬のための手引書です。授業とは別に、あなた自身で基礎を徹底的に叩き込む必要があります。…時間はかかるでしょう。ですが、諦めないでください」
教官室を出たアミティは、重い足取りで割り当てられた寮の部屋に向かった。二人部屋のようで、すでに荷物を解いている先客がいた。金髪をポニーテールにした、快活そうな少女だった。
「あ、あなたが同室のアミティ?よろしくね! 私はリリア・クレスト。騎士爵家の出身だけど、まあ、あんまり気にしないで!」
リリアと名乗った少女は、屈託なく笑いかけてきた。少しだけ救われた気持ちになる。しかし、リリアの言葉の端々からは、育ちの良さが滲み出ていた。そして、彼女もまた、アミティの噂を聞いているようだった。
「それにしても、あのビッグピヨ? すごかったんでしょ? どうやってやったの?」
悪気はないのだろうが、その質問はアミティの傷をえぐった。
その夜、アミティはベッドの中で、ミランディアから渡された本を開いた。難しい数式や理論が並んでいる。これを独力で理解し、実践しなければならない。周りは自分よりずっと先に進んでいる。不器用で、魔力も制御できない自分が、本当にここでやっていけるのだろうか。
(…でも)
親父さんの顔が浮かぶ。「やらかした分だけ、何か掴んでこい」。ビッグピヨを止めた時の、あの必死な覚悟。テストで、不可能だと思った数値を叩き出した時の、一瞬の高揚感。
(逃げちゃダメだ。ここで諦めたら、前の自分と何も変わらない)
アミティはギュッと唇を噛んだ。不器用でも、落ちこぼれでも、やるしかない。まずは、この自分でも持て余している、厄介で、もしかしたら特別なこの魔力を、理解することからだ。基礎の基礎から、一つずつ。時間はかかるかもしれない。何度も失敗するだろう。それでも、自分の手で、自分の力を掴んでみせる。
アミティは本に向き直り、最初のページに書かれた「魔力循環の基礎」という文字を、指でなぞった。すべてはまだ始まったばかりだ。