第8話:記憶に咲く花
記憶には、かたちがある。
それは言葉かもしれないし、風景かもしれない。
あるいは、誰かのまなざしや、指先の温度。
ユウが初めて“感応”を通して触れたのは、
悲しみの奥にそっと残されていた「優しさ」でした。
過去にリンクするということは、過ちを正すためじゃない。
そこに残った“想い”を見つける旅なのかもしれません。
今回は、“癒す”という行為の原点に、ユウが静かに向き合います。
どうか、あなたの心にも、小さな花が咲きますように。
「接続準備完了。ユウ、深呼吸して。リフレイン・アークを起動するわ」
通信越しに聞こえたリアナの声は、穏やかであたたかかった。
ネモリアの検査室に、微かに機械音が響く。ユウは椅子に身を委ね、ゆっくりと目を閉じた。
今日は“初期適性検査”の二回目。記録映像の中での感応反応を見るためのテスト。
ただの記録。それでも前回、彼はその記録の中に“誰かの声”を感じてしまった。
「今回は、教育用記録No.113。“花畑の情景”という記憶資料。安心してね、穏やかな記録よ」
「はい」
ユウは小さく息を吐いた。そして、再び記憶の波へ沈む。
⸻
最初に感じたのは風だった。
優しい風が頬を撫でる。視界がひらけると、そこには一面の花畑が広がっていた。
青空の下、無数の白い花が咲き誇っている。
草原の奥には小さなベンチがあり、その上には花束が一つ、そっと置かれていた。
「……綺麗……」
ユウはゆっくりと歩き出す。花を踏まないように、慎重に。
その足音に、風が応えるように吹き抜けた。
どこまでも優しい景色。
けれど、なぜか胸が締めつけられるような感覚があった。
それは、まるでそこに“誰かの涙”が染み込んでいるようだった。
(この場所……誰かの、さよならの場所だ)
通信越しにリアナの声が届く。
「ユウ、感応値が上昇してるわ。大丈夫?」
「うん……でも、何かが……残ってる。言葉にならない何かが」
ベンチの前で立ち止まると、ひときわ強く風が吹いた。
そして、ユウの視界にふと映る、ひとつのペンダント。
花と同じ白で形どられた、小さな記憶のかけらだった。
触れた瞬間、映像が微かに揺れる。
そして──
『……あなたが、いてくれてよかった』
音にならない声が、心に触れてきた。
⸻
それは断片的な記憶だった。
幼い少女が母親と花畑で過ごした日々。
病に伏した母を看取ったあと、一人でこの場所を訪れた少女の記憶。
悲しみと、感謝と、愛しさが交じり合う、ひとつの感情の結晶。
ユウは自然と膝をつき、ペンダントを両手で包んだ。
「……これが、記憶の形……?」
涙が滲む感覚があった。
けれどそれは、悲しい涙ではなかった。
「リアナ……これって……」
「ええ、明らかに“感情層”への共鳴が発生してる。あなたの中の“優しさ”が、記録の奥に届いたのよ」
「誰の声かはわからなかったけど、でも……感謝された気がした」
「それで十分よ、ユウ。それが、あなたの“癒し”の原点かもしれない」
⸻
──映像の再現は、さらに深く続いた。
白い花畑の奥にある一本の木。その根元には、かすかに揺れる木製の風鈴が吊るされていた。
それは音を鳴らすことなく、ただ風に合わせて揺れるだけだった。
ユウは足を止め、風鈴を見上げた。
そのとき、ひとつの映像が重なる。
──少女が、風鈴の前でしゃがみ込み、震える声で祈る姿。
『お母さん、ちゃんと、わすれられるかな……?』
祈りとも、独り言ともつかないその声が、時間を越えて記録に焼き付いていた。
ユウの胸に、またひとつ静かな波が生まれる。
忘れようとすること。
忘れてしまうこと。
それでも、残ってしまうこと。
記憶とは、悲しみを削るためにあるのではなく、
“そのまま在ることを許す場所”なのかもしれない。
──彼の中で、何かがふっと解けた。
風鈴が、ほんのわずかに音を鳴らした。
記録の映像であるはずのその世界に、確かな“いま”の感応が起きた瞬間だった。
リアナの声が、緊張を帯びて届く。
「ユウ、今……記録層そのものが応答した。これは……!」
ユウはゆっくりと風鈴に近づき、そして小さく呟いた。
「……忘れなくていいよ。だって、そのままでも……ちゃんと届いてるから」
それは、過去の誰かへの言葉でもあり、自分自身への慰めでもあった。
⸻
リンク解除後、リアナはいつになく黙っていた。
データを確認するその手が、少しだけ震えていた。
「前例がないわ……記録資料が、こんな風に“感応変化”を起こすなんて」
「僕のせい、でしょうか」
「違う。あなたの“力”のせいじゃない。“優しさ”のせいよ」
リアナは目を細める。
「癒しとは、技術じゃなくて……
記憶に寄り添うための“在り方”なのかもしれない」
その言葉に、ユウは静かに頷いた。
彼はまだ、記憶を取り戻していない。
自分の過去も、何者かも、曖昧なままだ。
けれど──それでも、誰かの記憶に咲いた花を見つけた今、
彼の中にはたしかに、歩き出す理由があった。
それは、たった一輪の“白い希望”。
どんな過去があろうとも、心に咲いたその花が、これからの道を照らしてくれる気がした。
⸻
朝が来た。
ユウは早くに目を覚まし、ひとりで中庭に出ていた。
昨夜見た記憶の中の花畑を、もう一度感じたくなったのだ。
庭の片隅には、咲き始めたばかりの白い小花がひとつ。
名も知らぬそれを、ユウは静かに見つめた。
「癒すって……ほんとうは、誰かを“救う”ことじゃなくて、
誰かがそこにいたことを、ちゃんと見つけてあげること……なのかな」
彼はポケットから小さな紙片を取り出した。
昨日、リアナから手渡された感応結果の簡易レポートだった。
“被記録資料 No.113において、癒しと同等の記録安定を観測”
“記録層における非干渉型感応の発生”
“詳細解析により、共鳴対象不明のまま記録波形変化を確認”
……つまり、それは誰にも説明できない“共鳴”だった。
でもユウにとっては、それで十分だった。
「また、あの記録に戻れるかな……」
ふとそんなことを思ったとき、背後から足音が近づく。
「今日は少し早いのね、ユウ」
振り返れば、リアナが微笑んでいた。手には、いつものハーブティー。
「おはようございます」
「記録、咲いていた?」
ユウは一瞬だけ言葉に詰まったが、ゆっくりと頷く。
「ええ。……ちゃんと、咲いてました」
ふたりは肩を並べて、白い花を見つめた。
その姿は、まるでひとつの記憶が生まれる瞬間のようだった。
⸻
悲しみの中に、一輪だけ希望の花が咲いていた。
ユウという存在は、まだ不確かです。
記憶も立場も、未来さえも──何ひとつ約束されてはいません。
それでも彼が歩き始められたのは、
“誰かの記憶に触れたい”という、ただひとつの想いでした。
そしてその想いが、偶然か、必然か──
白い花を咲かせたのです。
癒しとは、大きなことを成すことではなく、
誰かの心に触れ、その存在を「肯定」することなのかもしれません。
この物語を読んでくれたあなたにも、
そっと花が咲いてくれたなら、私はとても嬉しいです。
──千景 和(@Chikage_Kazu)