第3話:眠れぬ部屋
──夜は静かすぎて、心の声が響きすぎる。
誰かに言葉をかけるほどでもない。
だけど、ひとりでは受け止めきれないものがある。
眠れない夜に立ち上がるのは、
身体じゃなくて、心のどこか。
“自分のかけら”を探して、
目を閉じることさえ怖くなる。
第3話は、そんな“眠れぬ夜”の話。
記憶のない少年が、言葉にできない不安に触れる、静かな夜の記憶。
夜は、思った以上に静かだった。
照明は落とされ、廊下には足音ひとつ響かない。
無機質なベッドの上、ユウは目を閉じたまま、ずっと目を覚ましていた。
眠ろうとしても、
まぶたの裏に浮かぶのは、白い野原。
あの夢の景色と、誰かの声。
「……記憶が泣いていた……」
そう呟いた自分の声が、まだ胸に残っている。
けれど、なぜそれを知っているのかは、わからない。
記憶がない。
なのに、“欠けている”という感覚だけが、はっきりと存在していた。
それが一番、厄介だった。
“何を”失くしたのか分からないのに、
“何かが”足りないと、心が騒いでいる。
それは、呼吸の奥に沈んだまま揺れる、名前のない不安だった。
***
「……眠れてないようね」
不意に声がした。
ドアの隙間から差し込む明かりとともに、リアナが現れた。
手には、小さなマグカップが二つ。
ゆらゆらと湯気が立ちのぼっていた。
「勝手に来てごめんなさい。でも、なんとなく……起きてる気がしたの」
「……ありがとう」
ユウはゆっくり身体を起こし、ベッドの端に座った。
リアナはカップのひとつを差し出す。
ユウがそれを受け取ると、かすかな香りが広がった。
ハーブ系の、あたたかい匂い。
「落ち着くって言われてるお茶。私の、夜の相棒みたいなもの」
「……こんなに静かだと、自分の中の音がやけに大きくなる」
「うん、わかる。夜は、自分と一番近くなる時間だもの」
カップの底に触れる指先が、ゆっくりと温まっていく。
その温度だけが、
「まだここにいてもいい」と言ってくれている気がした。
***
「……ねえ、リアナ」
ユウがぽつりと声を出す。
「俺……怖いのかもしれない」
「何が?」
「何もない自分が、これから“何かになっていくこと”……
それが、ほんとは一番怖いのかもしれない」
「“今のまま”でいられないってこと?」
ユウは、答えられなかった。
けれど、リアナのその問いが、核心を突いている気がした。
「……自分のことがわからないのに、
誰かの記憶を修復するなんて……本当にできるのかな」
「うん。わからないままやるのは、不安よね」
リアナの声は、ただ優しいだけじゃなかった。
“分かっている人の声”だった。
「でも……誰かの記憶の中に触れたとき、
あなたの中にも、“揺れるもの”があるはず。
それを、怖がらないで」
ユウは黙ったまま、もう一口お茶を飲んだ。
少しだけ、温度が下がっていた。
***
夜が深まるほど、外の世界は静けさを増していく。
けれど、ユウの中には、どこかを探し続けている“何か”がいた。
それは“記憶”という名前かもしれない。
あるいは、“本当の自分”かもしれない。
けれどそれに、今すぐ言葉を与えることはできない。
だからせめて、
この夜を越えるために、誰かの“あたたかさ”があってよかったと思った。
「眠れない理由は、心がまだどこかを探していたから。」
夜の静寂が、その言葉を包み込む。
遠くで誰かの足音がした。
交代のネモリア職員が、夜明けの準備を始めたのかもしれない。
ユウはカップを両手で包み込みながら、
少しだけまぶたを閉じた。
そしてようやく、ほんのわずかに、眠りの気配が訪れた。
──夜に灯るのは、必ずしも光とは限らない。
誰かの声でもない、
未来の希望でもない。
ただそっと差し出されたマグカップの温度が、
誰にも言えない不安を包み込むことがある。
それは、記憶を思い出すためじゃない。
「今ここにいる」って、自分に教えてあげるための灯火。
眠れない理由は、心がまだ、
どこかに忘れてきた“自分の在り処”を探していたから。
──千景 和です。
言葉にならない夜の心を、物語でそっと灯しています。
あなたの眠れぬ夜にも、何か小さな灯が届きますように。
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