59.決して忘れたりしない
子狼の死は、各種族に通達された。人族の非道な振る舞い、まだ母親の庇護を必要とする年齢の子を殺した事実、彼らへの報復も含めて、すべて公開する。通達を請け負ったベルゼビュートの呼びかけで、何人もの有力者が駆けつけた。
冷たくなった子狼の体は、私の魔法で固定している。腐敗や損壊から守り、葬儀まで遺体を維持する目的があった。戻ったルシファー様は、子狼の前に座ったまま動かない。
「ルシファー様」
「オレは間違っているか? だが、魔の森は人族を排除していない」
魔王の意思決定の根幹は、民の暮らしがある。だが同時に、魔の森の意向も大きく反映された。森が健全なら、平和な暮らしは保証される。新種の魔族を生み出し、保護して守る。それが魔の森が示してきた愛情だった。
魔の森が生み出した種族を、自分達の思惑で勝手に滅ぼしていいのか? もし滅ぼすことを望むなら、魔の森自身が手を下すはず。そう考えるルシファー様は、ループする考えの中で踠いていた。
「我々は、人族は不要と考えます。ですが、あなたが反対するなら……多少の面倒を背負い込んでも構わない。そう思うのですよ」
最強の王として君臨し、各種族の権利を最大限に尊重し、己の義務を果たしてきた。その背中を見て暮らす我ら魔族が、あなたの決定を一方的に覆すことはない。この言葉がいずれ私の首を絞めるとしても、後悔しないだろう。
しばらく考え込んだ後、ルシファー様は首を横に振った。何かに折り合いをつけた顔で、子狼に手を伸ばす。硬くなった体を撫で、隣の母狼に一礼した。
「……っ」
言おうとした言葉を呑み込み、ルシファー様は拳を握った。爪が食い込んだのか、血の匂いがする。
「魔王陛下、ベール大公がお見えですよ」
普段は呼ばない堅苦しい肩書きで、ルシファー様に自覚を促す。軍を任されたベールは、厳しい表情で現れた。ルシファー様が彼と対峙する間に、ベルゼビュートが子狼に近づく。ドレスが汚れるのも気にせず、膝を突いて頭に手を置いた。
「精霊族は、この子の勇敢さと死を語り継ぐ。決して忘れたりしないわ」
母狼が無言で項垂れた。どれほどの名誉を与えられても、痛みは癒えない。ただの腕白な子供でよかった。悪さをして叱られて、前脚で押さえつける子狼で満足できる。生きていてさえくれたら……。
泣きたくなる気持ちを乗せた遠吠えが響き、集まった有力者は目を伏せた。ドラゴン、神龍、リザードマン、獣人、幻獣、様々な種族が顔を揃えている。
誰もが我慢しているが、手ぬるいと感じた。人族など滅ぼせばいい。そう考える反面、逆も考えてしまう。もし一族の誰かが、愚かにも他種族の子を殺したなら。何の非もない自分や我が子が殺されることを、易々諾々と受け入れられるか?
たった一人、愚か者が生まれたら種族が滅ぼされる。それは恐怖政治に繋がる可能性があった。万が一にも、滅ぼした後で冤罪が発覚したら……取り返しはつかないのだ。それならば、罪を犯した者だけを罰すればいい。
「こうして、法は出来ていくのですね」
ぽつりと呟いた。誰かの犠牲があるたびに、次の被害を防ぐための法が作られる。誰かの痛みがなくとも、法を整備するべきだ。
「ベール、法整備の検討を行います。私に委任をいただいても?」
「いいえ、私も関わりましょう。意見は複数必要ですので」
ベールは俯いた。さらりと流れる銀髪は、目元を完全に隠す。
綺麗な歌声が響いた。駆けつけた精霊と妖精が、高く低く歌い始める。鎮魂の意味を込めたのか、子守唄のような旋律が魔の森を包んだ。誘われたように、雨が降り始める。
「ああ、雨でしたか」
いつの間にか顔を上げたベールは、空を仰いだ。雨の雫がまるで涙のように、彼の頬を伝う。向かいに立つ私の頬も同じだろう。
泣けなかったルシファー様の心を映すように、空は見送りの雨を降らせ続けた。




