34.ほぼないがゼロではない
「勝ち逃げは許せないタチなんだ」
目が覚めて最初の音は、ルシファー様の意味不明な発言だった。何の話かと首を傾げようとして、全身に激痛が走る。それから手足に力が入りにくい。
「なにが……」
呆れ顔のルシファー様は、私の上に水を作った。水の球を器用に口元へ寄せ、少しずつ含ませる。この器用さがあるなら、拾った卵や子供の世話も、自分ですればいいのに。眉根を寄せて、それでも無言で水を飲んだ。
やたらと喉が渇く。飲んだそばから乾いていく奇妙な感覚に襲われた。
「その辺にしておけ」
まだ足りないと感じるのに、体はこれ以上飲めないと拒む。自分の体から分離されたような、不思議な状態で主君を見上げた。水を散らして消し、肘をついた上に顎を乗せる。行儀の悪い仕草なので、何度か叱った覚えがあった。
「お前、俺の前で死のうとしただろ。絶対に死なせてやらないからな! あと、黒い炎は消えていない。呑まれるなよ」
取り出せなかったとぼやき、がしゃがしゃと髪をかき乱す。誰もが憧れる純白の長い髪が、生き物のように動いた。手を離せば、何もなかったように戻る。
「ど、いう……」
あの後に何が起きたのか。なぜ手足が動かないのか。疑問をすべて滲ませた「どうして」に、ルシファー様は大きな息を吐いた。
「順番に説明するぞ」
ルシファー様は淡々と、他人事のように話し始めた。意外なことに客観的で冷静、事実のみを並べる。
あの生命体は、なんらかの事情でこの世界に紛れ込んだ。魔の森にとっては、体内に侵入した異物だ。吐き出そうとしたが、運悪く私の城に逃げる。黒い霧になって姿を隠そうとするも発見され、ある物体に反応した。
「ここに関しては、原因がオレだ。悪かった」
謝罪を混ぜた理由は、卵だった。黒い炎であり霧にもなる異生物の卵らしい。何も知らずに拾ったルシファー様が持ち帰り、私に持たせた。そのため卵を持っていた私を襲ったのだろう。
我が子を守ろうとする親の執念は凄まじいものがある。卵を持ち去られ、怒りで私を攻撃したのなら……怒りはあるが、納得できた。途中で謝罪したのも、発端が己の拾った卵だと認識したからか。
「ところで、まだ炎が消えていないとは?」
重要なことなので、しっかり確認しましょう。
「アスタロトの中にいる。分離できなくて、な。魔の森が手伝って封じたが、解放されると厄介だ」
「……なるほど。解放される可能性は?」
「ほぼないが、ゼロではない」
ならば問題ありませんね、と軽く流した。きょとんとした後、慌てた様子で「危険なんだぞ」と念押ししてくる。解放される可能性がゼロに近い上、この異生物を宿していると、原理不明だった能力が使えそうだ。
試しに指先を霧にしてみる。むず痒い感覚と共に、魔力が食われた。指先が崩れるように黒い靄になる。意識を集中すれば、指先が戻った。二、三回繰り返してイメージを掴む。炎の方も手懐ければ、立派な武器になるだろう。
「問題ありません。現時点で制御できています」
「……お前がいいなら、いいけどさ」
「卵はどうしました?」
ふと気になって尋ねる。あの卵が異生物の子なら、生まれては困るのでは? 魔の森の意思を確認した方がいい。さまざまな意味を込めた問いかけに、ルシファー様はけろりと明るい声で言い放った。
「蒸発させた」
「……は?」
「だから、蒸発させたんだ。アスタロトは勝手に酔いしれて自殺しそうになるし、異生物のせいで魔の森の機嫌が悪いし、オレは卵のせいで嫌な思いしたし。残す理由ないだろ?」
自分で拾い、育てろと預けたくせに。蒸発させた?
「あなたという人は! いいですか? 魔王たる者、己の言動に責任を持って……」
説教を始めた途端、彼は嬉しそうに笑う。それが答えだった。素直になれないところは、私もあなたも同じでしたね。