23.手合わせで手違いが起きました
消えたように見えたが、すぐに剣戟の音で居場所が判明する。ゆらりと周囲に陽炎に似た現象が見られるため、熱で己の姿を隠したのか。揺らめく透明のカーテンから、ピンクの髪の美女が飛び出す。
美しい銀の刃が、不思議な軌道を描いた。ルシファー様の髪を数本切り落とし、ベルゼビュートが顔を歪める。もう少し切り込んだつもりでいたらしい。紙一重で避けたルシファー様は、そのまま近距離でにこりと笑った。
邪気のない笑みで、ベルゼビュートの鼻先に剣を突きつける。あと僅かで彼女の皮膚に触れる、ぎりぎりの距離だった。ぴたりと動きを止めたベルゼビュートは、剣を消し去り両手をあげた。
「あたくしの負けです」
周囲の拍手を受けて、一礼して下がる。すると、ルシファー様はベールを手招きした。何か伝えて、私に向き直る。
「アスタロト、模擬戦やるか?」
「そうですね。ぜひ」
周囲が盛り上がる。祭の間くらい、こういった余興もありでしょう。取り出したのは、この世界に生まれ出た瞬間から手にしていた、相棒だった。飾り物のような細く実用性のない剣だが、魔力を凝らせて作り上げる。
切れ味鋭く、時に空間を切り裂くほど魔力が強かった。虹色に光を弾く刃をやや斜めに、左手で構える。
「いくぞ」
今までの受け身ではなく、ルシファー様が先に仕掛けた。飽きたのか、別の理由があるのか。もし私の実力を認めてのことなら、嬉しいですが。考え事を許すほど、ルシファー様の攻撃は緩くなかった。
何度か刃を当てて、一度引く。痺れるほど負荷のかかった左腕から、右手に持ち替えた。ルシファー様が握るのは小人族が鍛えた剣だが、量産品だ。あの程度なら、この剣の刃で切り裂けるはず。目を凝らさねば見えぬほど、薄い魔力が剣を覆っていた。
結界の応用だろう。あの魔力の膜を破るのは、至難の業ですね。どこから攻めたものか。考えを巡らすと、邪魔するように彼は打ち込んできた。積極的に攻め込むルシファー様は、どこか楽しそうだ。興が乗った、という意味だろうか。
「もっとだ!」
銀の瞳がきらりと輝く。一瞬だけ、嫌な感情が湧き上がった。
魔族の魔力は、外見の色に反映される。色が薄いほど強者であると主張する世界の中、誰より白に近い人。純白の髪、白い肌、銀の瞳。それでも足りないと示すように広がった大きな翼……。勝って這いつくばらせてやりたい。彼の美しい顔が屈辱に歪むのを見たい、と。
普段なら思いもしない感情が、一瞬で体に広がる。次の瞬間、激痛が走った。妙な感覚に気を取られた自分が悪い。そう認識するのに、黒い感情が溢れた。
『この俺を傷付ける者は……許さない』
高揚する意識が制御を外れ、魔力が高まる。抑えなければと思ったが、拡散の方が早かった。黒い霧が周囲を覆い、目の前の魔王すら見えなくなるほど。濃い霧が思考までも塗り潰す。
「うわっ、悪い……え? もしかして怒ってる?!」
謝罪して混乱を口にするルシファー様の声が、遠い。目の前が赤く染まり、黒が滲み、何もかも煩わしくなった。この形を保つのも面倒で、黒い霧に己の思考を散らしていく。
「ったく、怒ってるならオレに向けろ。魔力暴走だなんて、大公の名が泣くぞ? アスタロト」
優しい声は、言葉ではなく音として耳に届いた。意味を理解するより早く、首筋に冷たい感触が滑る。ぱらりと金髪が落ち、視線で追った。視界が歪んで……。
「おっと! ちゃんと支えろ」
私の首を掴んで笑うのは、まだ年若い姿の主君だった。純白の魔王、寒気がするほどの魔力を纏い、黒い霧を遠ざけて……彼はにこりと笑顔を向けた。




