第92話 藤吉郎は、切腹を命じられる
永禄7年(1564年)11月中旬 尾張国小牧山城 木下藤吉郎
もうじき、評定が始まる。権六殿から聞いた話だと、そこで先日の墨俣砦築城の功績が称えられるとかで、儂はドキドキわくわくしながら、この広間の末席に控えていた。
「お屋形様のお成り!」
そして、そうしていると、ようやく小姓がそう告げて、お屋形様はこの広間の上座に座られた。しかし……いつ呼び出されるのかと呼吸を整えて待っていたのだが、どういうわけか最後まで儂が御前に呼ばれることはなかった。
「権六殿……これは一体?」
「わからん。儂もこの急な変更については、何も聞いていないのだ」
「そう……ですか」
もちろん、墨俣砦の築城の功績は、誰の目から見ても全部この儂に帰するものは明らかで、今日じゃなくても次の評定ではお褒めの言葉と褒美に預かることができるものと疑ってはいなかった。この時までは……。
「木下殿、柴田様。お屋形様が自室にてお待ちです」
だが、小姓にそう告げられて、儂は「あれ?」と思った。功績を称えてくれるのなら先程の評定の場が最もふさわしい場であるというのに、なぜ自室に呼ばれるのかと。
無論、疑問に思うものの行かぬわけにはいかず、儂は言われた通りに権六殿とお屋形様のおられる座敷へと移動した。したのだが……そこに仁王立ちしていた閻魔様を見るなり、逃げ出したくなった。
「お、お屋形様……木下藤吉郎、お召しにより参上しました」
「…………」
「お屋形様……?」
言葉をこうしてかけても、儂を睨みつけるだけで何も言わぬお屋形様を見て、本気でまずいと思った。だから、何がバレたのだろうと記憶を掘り起こしてもみた。
帰蝶様の入浴を覗いた件か、あるいは城内の侍女に手を出した件か、それとも、こっそり金平糖を盗み食いしたのにそれを何度も小姓の仕業とした件か……。
しかし、お屋形様の怒りの原因は、どれにも当てはまらなかった。相変わらず無言のままで投げつけられた書状に目を通してみると、そこには蜂須賀一党を騙し討ちにしたことを非難する内容が記されていたのだ。そして、差出人はお市様であった。
「……おい、エテ公。貴様、墨俣砦築城に川並衆の力が必要だからと、寧々に仲介を頼んで動かしてもらっておきながら、それを用が済むなり騙し討ちにするとは、一体どういうことだ!!」
「あ……えっ、いや……そのぅ……」
「しかもだ!宮後村の蜂須賀屋敷を我が手の者が襲撃したとあるが、俺は全然知らぬ話だぞ!!まさか、貴様……兵を独断で動かしたのではあるまいな?」
「う……うう、そ、それは……」
「この糞たわけが!!今すぐ、この場で腹を切れ!!」
「ひ、ひぃ……」
恐怖のあまり、股間が生暖かくなった。何か言い訳しなければならないとは思っていても、咄嗟には言葉が出ない。ただ……こんな所でまだ死にたくはないと思った。だから、ひたすら頭を床に擦り付けて許しを願うしかできなかった。そうしていると……
「お屋形様。お怒りはごもっともなれど、藤吉郎は褒められた方法ではないとはいえ、墨俣に砦を築くという大功を挙げております。その者に高々土豪をひとつ潰したくらいで腹を切らせれば、果たして家中の者がどう思うか……」
「ぬっ!?権六、貴様……庇い立てするか?」
「藤吉郎は某の妹婿にて、見捨てれば妹に叱られまする故。つまり、某とお屋形様は同じかと。妹に嫌われたくない兄という点では……」
「なるほどのう……権六、面白きことをいうな」
「恐れ入ります。では、藤吉郎へのご寛恕を期待させていただいてもよろしいでしょうか?」
「そこまでいうのならば、市の怒りを鎮める手立ても無論考えておるのだろうな?」
「もちろんにございます」
そして、権六殿はお屋形様にその手立てを説明した。一つは、近江に逃れた蜂須賀一党をこれ以上つけ狙わないこと。二つは、此度の不幸な行違いを謝して、川並衆が得るはずであった収益を向こう10年間賠償金として、毎年支払うということだ。
「元々、川並衆がいれば、我らの懐に入る物ではありませんので、くれてやったところで痛くはないかと」
「見事だな、権六。ただ、それでは、この俺が市に面目が立たぬから、2割色を付けてやってくれ。ちなみに、その2割の追加分は……エテ公、貴様が負担しろ!」
「えっ!?い、いや……そんな大金は、足軽大将の某ではとても……」
「此度の功績により、おまえには約束通り墨俣砦と周辺3万石を与える。それで支払えばよい」
たった3万石では、砦を守るためや領地を運営する費用、あと商人たちへの借金の返済を差し引けば、手元にはほとんど残らない……いや、寧ろ赤字だ。
「どうした?エテ公。返事がないが何か文句でもあるのか?」
「藤吉郎……お屋形様に早くお礼を申し上げぬか」
しかし、ここで拒めば、残るは「切腹」の二文字であるため、儂はついに諦めて拝命することにした。復讐できないことを小一郎に、そして、美しい着物を買ってやれなくなった菜々に、心の底から詫びながら。




