第88話 雨の令嬢は、超絶美男子を前に心変わりをする
永禄7年(1564年)11月上旬 近江国小谷城 美里
「さあ、お勝殿。始めますから、どうぞ中に」
「は、はい。よろしくお願いします」
……気に食わない。わたしから玄蕃頭様を奪った泥棒猫が偽善者ぶるのを見て、反吐が出た。きっと、腹の内では悪巧みをしているに違いない。あ……もしかして、これも自作自演なのかしら?
「美里殿?いかがなさいましたか?」
「あ……いえ、なんでも」
「では、美里殿も中に」
しかし、この場でそのことを証拠もなく断罪することなどできない。だから、わたしは大人しくこの女狐に従い、先程のお勝殿の隣に座る。そこが、次席家老雨森弥兵衛の娘たるわたしの場所だ。
(それにしても、玄蕃頭様はこの女のどこがいいのだろう?)
正直言って、わたしには及ばないものの美人ではあると思う。だが、おむつを付けていた頃から一緒に居ることが多かったわたしを捨てて、玄蕃頭様がこの女に乗り換えられた理由がわからない。あるとすれば……無理矢理に手籠めにされて、わたしに捧げるために取っていた大事な童貞を奪われてしまったとしか……。
(だとしたら……許すわけにはいかないわ!)
「あの……なにか?」
「いいえ、なんでもありませんわ」
「そう?」
あぶない、あぶない。つい腹の底から湧き上がてくるどす黒い感情が表に出そうになっていた。いずれは引きずりおろしてやるつもりだが、今はまだこの女が玄蕃頭様の妻だと周りは認識しているのだ。感情に任せて太腿に忍ばせている短剣でめった刺しなどすれば、潰されるのはこちらの方だ。
「ところで、美里殿は誰か良い人はいないのかしら?」
「えっ!?」
「あら?その反応は、どなたか好いた方がいるのかしら?」
「それはあなたの夫ですよ!」……と言えれば、どんなに気持ちがいい事だろうか。そのときのこの女の歪んだ顔も見てみたいものだ。
「……いいえ、そんな方はいませんわ」
しかし、この場でそれを言うわけにはいかない。それは、弓を構えている敵陣中に鎧も付けずに真正面から攻め込むようなものだ。すると、この女は「それなら、丁度良い人がいるのよ」といきなり言って手を叩いた。
「あの……一体何を?」
「実はね、わたしのうちに独り身の男がいるのよ。折角だから、一度会わせて見たらどうかなと思ってね」
「な……何を勝手なことを。誰もそのようなことを頼んだ覚えは……」
「寧々様、お呼びで?」
「え……」
襖が開かれて現れたお方を見て、わたしは息をするのをつい忘れてしまった。そこには、玄蕃頭様など比べようもない超絶美男子様がいたのだ。
「美里殿。この人は前田慶次郎殿と言いましてね。わたしが尾張から連れてきた人なんだけど……」
「慶次郎様と申されるのですか。わ、わたくし……雨森弥兵衛の娘で、『み・さ・と』と申します。どうか、末永くお願いしますわ」
「は、はあ……これはどうも。尾張国は荒子城主、前田蔵人の倅、慶次郎利益と申します。こちらこそ、よろしくお願いします」
その声も姿に負けず劣らず美しく、わたしはもう天にも昇りたくなる気分となった。だから……
「あの、寧々様。某はまだ松殿を諦めておりませんが……」
「あれ、そうなの?あれから2年も経つし、話題にもしなくなったから、もう諦めたのかと思っていたわ」
「今は、叔父が墨俣辺りで死んでくれないかなと待っており……」
「まあ……でも、どこでどんな縁があるのかはわからないから、美里殿のお相手をしてくれない?」
「どうしてもと仰せであれば……」
……などといった野暮な会話は聞こえない。ああ、全く聞こえない。きっと、それは空耳だ!あと……松とやらは、死ねばいいのに。
「では、美里殿。少々、あちらでお話でも……」
「はい!喜んで!」
そして、「いってらっしゃい」と手を振る寧々様は、とてもいい人だったことに、わたしはようやく気づかされた。まさに、縁結びの女神様だ。誤解していてすみませんでした。ただし……松って女は気になるけど。




