第75話 今孔明は、藤吉郎の「三顧の礼」を1度目で断る
永禄7年(1564年)7月上旬 美濃国菩提山城 竹中半兵衛
「……大魚をやはり逸したということか」
すでに、寧々殿がこの部屋を去ってから半刻(1時間)が過ぎているが、空いた席を見ながらも先程までのやり取りを思い出して、つくづく思った。
もし、2年前の策が成功して、彼女が喜太郎様の妻に収まっていれば、美濃は持ち直して、俺はその傍で思う存分采配を振るうことができたのではないかと。
もちろん、その喜太郎様と袂を分かつことになった今となっては、言っても仕方なきことであることは理解しているが、こうして時間が過ぎてもそのことが頭の中を何度も過り、中々消えることはなかった。
「兄上」
しかし、そのときだった。弟の久作が新たな客が来たことを告げたのは。そして、誰が来たのか訊ねると、尾張織田家の家臣で、その名は木下藤吉郎といった。
「ほう……木下殿も、某がこちらにいると気づかれましたか」
「ええ、某には忍びの伝手がございましてな。稲葉山城は空城であるというのはとっくの昔にお見通しでして……」
寧々殿と同じように、この部屋に通した木下殿は、事もなさげにそう言って退けたが、それは容易い話では決してない。城の周りには斎藤の軍勢がありの這い出る隙間もなく包囲しているし、城内もそこそこカラクリを仕掛けてきたのだ。
ゆえに、それを突破できる忍びということならば、かなり手練れの者を抱えているということなのだろう。身分はまだ足軽大将だと名乗っているが、どちらにしても、油断していい相手ではなかった。
「それで、ご用件は?」
「単刀直入にお願い申す。どうか、半兵衛殿。我が織田家に仕官していただけないでしょうか?」
「ほう……」
正直言って、この男は面白いことを言うなと思った。しかも条件は、美濃半国という破格の条件だ。それゆえに、俺はあえて確認することにした。
「木下殿。2年前、あなたの恋人を攫おうとしていたのは某であるということもご存じですよね?」
「もちろん、存じておりますぞ。しかし、それはあくまで某個人の事情に過ぎません。半兵衛殿は、我が織田家に必要なお方だと、某は思っておりまするゆえ、どうか我がお屋形様にお仕えして頂けませぬか?」
(お屋形様にお仕えして頂けませぬ……か)
ここで、自分に仕えて欲しいと言わない所を見ると、やはり俺への恨みは消えていないと見るべきだろう。もちろん、それを隠してこのように勧誘してくるのはあっぱれではあるが、迂闊に乗って用が済んだら、あとでバッサリとされてはかなわない。
そのため、この話は俺自身にとっては危うい話だと認識せざるを得ず……
「もうしわけありません、木下殿。某は、北近江の浅井家にお仕えすることに決めましたので、ご要望に添うことはかないません」
「え……?」
まだ何も決まっていないにもかかわらず、俺は木下殿にそう申し上げた。なぜ、そこで浅井家が出てくると思っているのだろうが、俺の心はすでに寧々殿に奪われていること、もし、あと2刻早く来ていれば、結果は逆だったかもしれないが、変更するつもりはサラサラないとも伝える。
「但し、折角来られた貴殿の顔を潰すのも何ですから、某は家督を弟の久作に譲り、その久作を織田様にお仕えさせることにしましょう。それで如何ですかな?」
「それは構いませぬが……そうですか、寧々殿が来られていたのですか」
その哀愁漂うその姿は、手柄を横取りされたことに対するものではなさそうで、どちらかといえば、昔の恋を懐かしむのに近いと言うべきなのかもしれない。
(そういえば、この二人は昔恋人だったと聞いたな……)
そして、偶然かもしれないが、考え方も度胸の良さもどこか似ているようにも思えなくもない。だから、ふと考えてしまった。もし、木下殿と寧々殿が恋を成就させて結ばれていたのならば、果たしてどこまで天下に羽ばたけたのだろうかと。
「竹中殿?」
「いえ、よしておくとしましょうか……これも言っても仕方がない話ですからな」
「?」
少しばかりであるが、自分の世界に入り込んでしまったようで、俺は我に返ってこれをもって木下殿との話し合いを終えた。目的を達成することができなかった木下殿は肩を落として部屋を出て行ったが、気遣うつもりはない。その時間も惜しいと感じた。
俺は越前にいる明智十兵衛に景鏡を煽るように手紙を認めると、それを手の者に託した。失敗は許されない。すでに退路を断って、寧々殿に仕えると決めた以上は。




