第60話 寧々さん、父母に別れを告げる
永禄5年(1562年)8月下旬 尾張国清洲 寧々
「うそ……本当に、本当に、こんなお屋敷に住んで構わないの!?」
杉原の父が『城代家老代理補佐』とかいう、わけのわからない役職に任じられたことで、それまでの長屋からこの一戸建てのお屋敷に、母共々移り住むことになったのだが……とても喜んでいるその姿を見て、心が痛んだ。
何しろ、不自由な暮らしをさせられることはないだろうが、わたしが織田家を裏切らないための『人質』なのだ。慶次郎からは、もしものときは、今、はしゃいでいる母を生暖かい目で見ている使用人たちの全てが敵に回り、父母を害すことになると聞いている。
(もちろん、信長様を裏切るつもりなんてサラサラないけど……)
それでも、かつて摂津有岡城に行ったまま幽閉されて、戻って来られなかった官兵衛殿の子を確認不十分のまま、あっさり殺すように命じたお方なのだ。わたしだって、何か誤解を招くようなことがあれば、そんな気はなかったとしても、裏切ったとみなされる可能性はないわけではない。
もちろん、その場合は……ここに残していく父母は、殺されることになるだろう。そう思うと、辛かった。
「……心配するな。もしものときは、儂が何とかする」
「父上?」
だが、そんな暗い顔をしたわたしに、杉原の父はそっと母に聞こえないように囁いてくれた。元々、わたしが斯波の娘だと分かれば、命を狙われかねなかったことから、特に今までと状況が変わるわけではないという。
「まあ……そなたは信じられぬだろうが、こう見えても儂はかつて斯波家中でも剣の達人と評判でな……」
そう言って、父は笑顔でそこにあった箒を振り回して見せたが……当然だが、その度に埃が舞い、わたしも少し離れたところに居たはずの母までもが「ゴホゴホ」と咳き込んでしまった。そのため……
「もう!何やってんのよ!全くあんたって人は!!」
「初手からわたしに恥をかかせるな」と母に叱られて、父はシュンとしてしまった。だが、そんな二人を見てわたしはおかしくなって、大笑いした。そして……大笑いしながら、自然と涙が頬を伝った。
「寧々?」
「ごめんね……わたしのせいで、こんなことになって……」
「わたしのせい?何を言っているのかわからないけど……そんなに泣かないでよ。意味が分からないわ」
母には人質云々の話はしていないから、突然泣き出したわたしに困惑している様子であったが、それでも優しく肩を抱いて慰めてくれる。それがとても申し訳なくて……涙は中々止まることはなかった。
だが、それもいつかは止まる。涙を拭ってわたしは三つ指をついて、二人に改めて頭を下げた。「今まで育ててくれてありがとうございました」と。
「何よ……まるで、どこかに嫁ぐみたいなことをいうわね……」
「そういえば……お城で聞いた話だが、寧々……おまえ、浅井の若様と良い仲になったというのは誠か?」
「えっ!?」
父の言葉に驚く母に、わたしは打ち明ける。すぐではないにしろ、北近江に行った後、浅井玄蕃頭様の元にいずれは嫁ぐことになると。すると、母は思いっきり喜び、飛び跳ねた。
「でかしたわ!寧々!!やっぱり、あなたはやればできる子ね!!」
そして、そのままお祝いの料理を作らなきゃと張り切る母を……父が必死に止めた。使用人が折角いるのだから、ここは彼らの顔を立てて任せるべきだというが、本音は違っていた。
「あぶない、あぶない……折角の祝いの場が凄惨な殺人現場と化すところだった……」
母が居なくなったところで父が漏らした言葉で、わたしの料理音痴の源流を知ることになる。そういえば、うちの食事は父がいつも作っていたな……と思い出して。
 




