第51話 名もなき忍びは、任務に挑むも……
永禄5年(1562年)7月上旬 尾張国清洲城 名もなき忍び
深夜。城中の者たちが寝静まったころを見計らって、俺は闇夜に紛れて忍び込む。無論、それでもそこそこの見張りの者たちが定期的に見回りを行っていて、庭を歩くようにとはいかないが、俺の実力的には何も問題はない。
塀から庭に降りて、あっという間に隙を突いて駆け抜けると、そのまま標的のいる建物の天井裏に入り込むことに成功した。
(さて……あとは、市姫の部屋に忍び込み、殺すだけだが……)
頭の中には城の見取り図は入っているものの、張り巡らされている罠の位置までは把握できてはいない。そのため、物音を立てぬように気を付けるのと同時に、誤って鳴子を鳴らすような真似をしないように、夜目を利かせてこの真っ暗な空間を進んでいく。
そして……ようやくたどり着いた目的地の天井板を開けて、眠っている標的の顔を覗き込んだ俺は、つい息をすることを忘れるほど驚いた。そこにはまるで美の女神かと思うような美少女がいたのだ。
(あれを……殺せというのか?)
すぐに、そんなことはできないという結論に至る。彼女を殺さなければ、織田と浅井の盟約は成り、我らがお仕えする六角家がこの先窮地に陥る可能性があるということだが、今は「それがどうした!」という気分だ。
だから俺は、天井板をそっと閉めて、この場からゆっくりと元来た道を戻っていった。もちろん、与えられた任務を放棄したのだから、いずれ追手が差し向けられることになるだろうが……悔いはなかった。そうしていると、台所の真上に辿り着いた。
(誰もいないな。よし……それならば)
この後、少しでも早く尾張を離れて、甲賀の手の及ばないどこかに逃走しなければならないのだ。それゆえに、出立前にここで何か腹ごしらえをしておこうと思って、俺は下に降りる。すると……好都合なことに、美味しそうな饅頭がたくさん台の上に置かれていた。
だから……俺は、迷うことなくそれを手に取り、思いっきり頬張っては次々と喉に流し込んだ。
「うぐっ!?」
ダメだ。声を出しては、警備の侍に気づかれると思って、我慢しようとしたのも一瞬のこと。胃の腑の底から途轍もなくこみ上げてくる不快なものを耐えられきれずに、俺は並べられている饅頭の上に盛大に吐いた。
「もしかして……毒か?」
その原因に思い至るも……どうやらすでに手遅れだったようで、吐いた先には血が広がっている。
「何者だ!?」
「皆の衆、曲者でござる!出合え!出合え!!」
そして、ついに意識が朦朧として、台所から外に出てしまった時点で、俺は間抜けなことに城の者に捕らえられてしまった。本来であれば、こういったときは敵に情報を渡さないように舌を噛むなりしなければならないのだが……
「おい!貴様!!誰の命を受けた忍びか!?」
「……六角承禎様の命により、市姫様のお命を頂戴しに参りました……」
どういうわけか、訊ねている兵士も困惑するほどに、聞かれていないことまでスラスラと馬鹿正直に俺は話してしまう。だが、そうしていると……
「これは一体、何の騒ぎです?騒々しい……」
「あっ!これは、お市様!!」
もうすぐこの命の灯が消えようとしているというのに、俺は美の女神様のお姿を最後に一目見ることが叶った。意識が次第に遠のいていく中、そのことを最後に神に感謝して、人生の幕を下ろしたのだった。
「ああ!わたしのお饅頭が全部台無しにぃ!!」
……そんな叫び声も最後に聞こえたかもしれないが。




