第43話 寧々さん、ささやかな我儘を言う
永禄5年(1562年)7月上旬 尾張国清洲城 寧々
「それでは、寧々様。行って参ります」
わたしの身代わりで攫われてしまった菜々さんの救出のため、慶次郎は留守居役の村井様に掛け合ってかき集めた兵を連れて、犬山方面へ向かって出立した。ただ、今日はこのあと浅井家との交渉が控えていて、それについてはわたし一人で臨むことになる。
しかし、気になるのはわたしの素性を浅井家が知っているのかということだ。
「まあ、知っていると考えて間違いないわよね……」
犬山の織田信清がこうしてわたしを誘拐しようと企むくらいなのだから、北近江はそれより離れているとはいえ、浅井家の皆様が知らないとは考えづらい。それゆえに、自分が原因で主の婚礼を前倒しにして欲しいなどとは、言い辛い所がある。だが、そうしているうちに……
「申し上げます。浅井玄蕃頭様が参られました」
使者の到着を告げる侍女の声が聞こえて、わたしは威儀を正した。すると、玄蕃頭様はお付きを一人従えて、この部屋に入ってきた。
「ご無沙汰しております、寧々様。ご機嫌麗しゅう」
そう言いながら、頭を下げる玄蕃頭様を見て、わたしは確信した。やはりバレていると。今まではあちらの方が身分は上なのだから、「様付け」は不要なはずだ。
「あの……玄蕃頭様。今のわたしはあくまでお市様の侍女でして……」
「あ……もしかして、ご不快でしたか。それなら……今まで通り、寧々殿と呼んだ方がよろしいでしょうか?」
「その方が助かります。正直申し上げて、いきなりお姫様の扱いをされて戸惑っておりますので……」
かつては「北政所」として誰からも敬われていたので、本当はこの程度のことで戸惑ったりはしないのだが、慶次郎も最近どこかわたしに壁があるし、そう言ってくれるのなら、せめて玄蕃頭様だけはと思ってしまった。つまり、これはわたしの我儘だ。
しかし、玄蕃頭様はこの我儘を受け入れてくれて、以前と同じ態度で交渉に臨んでくれた。その柔軟な気遣いをわたしは嬉しく思った。
そして、お市様の輿入れを前倒しにする件も了承してくれた。こちらの準備ができれば、いつでもお迎えすると言ってくれて。
「若……そろそろ」
だが、大方の話を終えたところで、お付きの方が玄蕃頭様に何やら催促するような囁き声が聞こえた。この後、茶の湯でもご一緒にと思っていただけに、もしかしてあまり時間がなかったのかと思ってしまった。
「あの……」
「ああ、すみません。じ、実は……」
そこで、なぜか玄蕃頭様は背筋を伸ばして真剣なまなざしをこちらに向けてきた。その強い視線に押されてか、まだ何も言われていないのに、わたしの方まで緊張してくる。すると……
「寧々殿!わ、わたしと……」
「申し上げます!只今、城門に樋口三郎兵衛殿が参られまして、至急、玄蕃頭様にお会いしたいと申されているのですか?」
玄蕃頭様が何かを言おうとした刹那、現れた侍女がそれに被せるかのようにわたしに告げて来た。
「如何なさいます?こちらにお通ししましょうか?」
「ええ……お願いします」
どこか気の抜けたように玄蕃頭様が答えたことは気になったが、わたしは侍女に許可を与えて、その樋口殿をこちらに案内するようにお願いした。しかし……
「若!一大事です!!寧々様がどうやら、美濃に攫われたようです!!」
庭に現れた樋口殿はどういうわけか、わたしがここにいるにもかかわらず、開口一番そのような言葉を口走った。




