第37話 慶次郎は、桐紋の使用許可を前に観念する
永禄5年(1562年)6月中旬 尾張国清洲城 前田慶次郎
「お屋形様。お呼びと伺い参上しました」
突然の呼出しを受けて、お屋形様の部屋に行くと、すでに人払いが済ませてあるようで、他には誰もいなかった。だが、それだけに覚悟を決めて御前に座ることにした。すると、上座から怒気を抑えているような、そんな重い声が聞こえてきた。
「……慶次郎。単刀直入に訊ねる。そなた、何かしたのか?」
「はて?何のことでしょう」
「惚けるな。瀬戸に隠居している斯波の亡霊から、書状が届いたぞ。寧々を猶子とすることを認めるとあるではないか。正直に申せ。工作したのであろう?」
なるほど、その事かと理解して、それならばと素直に認めることにする。「猶子」であれば、何も問題はないとして。
「お市様の筆頭侍女たる寧々様が下級武士の娘などという身分では、浅井家に舐められますからな。ですので、父の伝手を使い、少々金を包みました」
「寧々の身分については、儂もどうにかせねばとは思っていたが……それでも、斯波はこの尾張の守護だった家柄。儂としては、あまり気分が良い話ではないぞ。しかも、これを見ろ!」
そう言ってお屋形様は、一通の書状を俺に投げつけてきた。そして、中身を開けて確認すると……
「これは……五三桐の紋!?え……?寧々様に使用を認めると?」
思いもよらぬとんでもないものが飛び出してきたので驚いた。桐紋は、足利将軍家より斯波家が賜った家紋であり、その使用を認めるというのは、明らかに猶子としての処遇を逸脱していたのだ。
「だからのう、慶次郎。正直にそなたが知っていることを儂に申せ。今ならば、例え寧々が斯波の娘だとしても、見逃してやる」
ギロリと睨まれて、もう逃げ場所がないことを悟り、ついに知っていることを洗いざらい白状した。すると、全てを聞き終えたお屋形様から帰ってきたのは、盛大な溜息だった。
「お屋形様?あ、あの……寧々様は、別に謀反などをたくらむつもりは……」
「わかっておるわ。そもそも、そのつもりなら、とっくの昔に儂に毒でも盛っているだろう。何しろ、何度もあやつの立てた茶を飲んでおるのだからな。それに、寧々自身も知ったのは最近であろう?」
「はい……たまたま実家に寄られた際に、母親から聞いたらしく……」
「だろうな。最近、どこか上の空だったからな、あやつはわかりやすい。だが、それにしても……」
お屋形様は、笑いが堪えられなくなったようで、噴き出しながら言い放った。「斯波の姫なら、藤吉郎が逆立ちしても届く相手ではなかったな」と。ただ、それは自分にも言えることだった。わずかに残っていた仄かな恋心も、これで微塵と消え失せていた。
そして、しばらく大笑いをされたのち、お屋形様は再び威儀を正されてこちらを向かれた。
「慶次郎!」
「はっ!」
「お市の婚礼だが、少し前倒しにするぞ。その意味、そなたならわかるだろうが……」
「寧々様をこの尾張に長く置けば置くほど、敵に利用される恐れがあるということですね?特に犬山のお方などに……」
「そうだ。寧々にその気がなくても、攫われるなどして信清の手に落ちれば、旗頭にされて尾張が再び揺らぎかねぬ。よって、浅井と談合して、少なくとも今年の内には輿入れできるようにせよ」
「かしこまりました」
そう言って頭を下げて命を受けるが、果たして準備が間に合うのか不安が残る。だが、そのようなときだった。廊下からバタバタと大きな足音が近づいてきたのは。
「お屋形様!」
「何用だ、佐久間!今は人払い中だぞ!!」
「怖れながら申し上げます!犬山の織田信清勢が……楽田城に攻め込みました!」
「なにっ!?」
噂をすれば影である。楽田城は犬山の目と鼻の先にある城で、信清がこちら側を攻撃する際には、最初の標的となる場所だ。それゆえに、それなりの兵力は置いているはずだが、佐久間様の様子からすると、情勢はあまりよろしくはないらしい。
「慶次郎……先程は今年の内と言うたが、あまり悠長なことを言ってはおられぬやもしれぬな。よって、できるだけ急げ。可能であれば、秋に入る前でも構わぬからな」
そして、必要なら金も人も好きなだけ使えと言い残して、お屋形様はこの部屋から出て行った。遠ざかりながら、「具足を持て!」という声が聞こえたから、すぐにでも出陣するのだろう。そうなれば、最早この部屋に残る理由はない。
そのため、俺はそのまま部屋に戻って、浅井への書状を認めることにしたのだった。




