第221話 猿夜叉丸は、戦場で恐怖する
元亀元年(1570年)12月下旬 越前国北の庄 浅井猿夜叉丸
朝、本陣の置かれている足羽山から見た景色は、余りにも惨過ぎて思わずボクは目を逸らした。しかし、そんなボクに父上は言う。浅井の大将になるのなら、この景色を覚えておきなさいと。
本音を言うと、別に大将になんてどうしてもなりたいわけではない。だが、それを口にすると乳母の智が母上に叱られるので、ボクはこの景色を見るしかないのだろう。ああ、夢に出て、おねしょしたらそれはそれで叱られるし、一体どうすればよいのか。
しかし、そうしているとボクにとって心強い味方である叔母上がやってきた。
「それじゃあ、本当に今日は河原で仁王立ちしなくていいんですね?嘘だったら泣きますよ!」
作戦を考えた半兵衛にそうやって詰め寄る姿は、いつもの賑やかで楽しい叔母上で、ボクはホッとした。
昨日の一騎打ちで二人の首をいとも簡単に跳ねて、返り血で染まった姿を見たときは、大好きな叔母上が怨霊に乗っ取られたのかと思って泣いてしまったが、どうやら寝る前にした「どうか叔母上を元通りにしてください」というお祈りを仏様は聞いて下さったようだ。お城に帰ったら、仏壇にお礼のおはぎをお供えしなければ。
「それで、半兵衛。我らはこれより川を渡り、北の庄に入ればよいのだな?」
「はい、左京大夫様。見ての通り、火は氾濫した川の濁流によって既に鎮火済み。わずかに生き残っていた残党も先に渡河した遠藤殿や海北殿から掃討を完了したと知らせが届いています。無論、それでも油断は禁物ですが……」
「そのあたりは心得ておる。だが、この越前の支配者が俺であることを民に知らしめるためには必要なことなのであったな?」
「そのとおりにございます。ですのでどうか、ご出立の程を」
「うむ!」
父上はそう答えると立ち上がられて、半兵衛の言うとおりに全軍に川を渡って北の庄に入ることを皆に命じた、ボクはそんな死体が一杯いるところになんか行きたくないので、ここで叔母上と一緒にお留守番をすると申し上げようと思ったのだったが……
「それじゃあ、猿夜叉丸様。わたしと一緒の馬に乗って、参りましょう」
……と、他ならぬ叔母上に言われてしまい、逃げ道がなくなってしまった。そのため、ボクはこうしてあの恐ろしい場所に向かうことになったのだった。
「大丈夫ですよ、猿夜叉丸様。この寧々が、何があっても守って差し上げますから」
川を渡り、北の庄に向かう道すがら、叔母上はそういつもの優しい口調でボクを励ましてくれるが、そもそも守りたいのなら、こんな危険な場所に連れていかないでと言いたかった。だけど、それを言えば、きっと悲しむと思って言わない。
叔母上もボクを浅井の大将にしたいということでは、母上と同じ気持ちだと思うからだ。
「……ごめんね。本当は嫌よね。こんな怖いところに連れてこられて」
だが、そのときだった。そんなボクの気持ちが伝わったのか、叔母上がそのようなことを言ってくれたのは。だから、とても嬉しくなって……感情が抑えきれなくなって、ボクはつい頷いてしまった。だけど、叔母上はそんなボクを叱らずに、後ろからぎゅっと抱きしめてくれた。
「叔母上ぇ……」
「辛い思いをさせてごめんね。でも、ここまで来たら、最後までやり通さないとダメなのよ。だから、もう少しだけ辛抱してね?」
泣きそうになるけど、ここで泣いたら叔母上に迷惑がかかると思って、ボクは我慢した。目的地の九頭竜川までは、もうそんなに遠くはない。だから、本当にあと少しだった。しかし……
「巴御前!覚悟!!」
死んだと思っていた死体が急に何人も動き出して、そいつらは刀を手に持ち、こちらに向かって駆けてくるのが見えた。もちろん、護衛の兵も応戦するが、そのうちの一人が鉄砲を構えた。 こうなると、馬に乗っている分、格好の的だ。
「あ、ああ……」
ボクはここで死ぬんだと思った。すぐに銃声が聞こえて、恐怖でお漏らしもしてしまった……が、死んだのはどういうわけか、鉄砲を撃とうとした人の方だった。
「馬鹿ね。わたしに銃で勝負を挑もうなんて、100年早いわ!もう一回生まれ変わって出直しなさい!」
何が起こったのか。声が聞こえたので振り返ると、叔母上が鉄砲を降ろそうとしているのが見えた。だから、ボクは恐る恐る訊ねた。今のは、叔母上が撃ったのですかと。
「ええ、そうよ。もしかして、驚かせちゃったかな?」
ニッコリ笑って安心させようとするが、ボクは確信した。叔母上に取りついた怨霊はまだ完全に祓われていないことを。だから、帰ったら仏壇に手を合わせて、今度こそどうか優しい叔母上を返してくださいと、仏様にお祈りをしなければならない。ただ……
「あら?臭うわね。もしかして……今ので、漏らしちゃった?」
……どうやら、その前にふんどしと袴を替えなければならないようだが。
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