第205話 藤吉郎は、近江に栄転する
元亀元年(1570年)7月下旬 美濃国岐阜 木下藤吉郎
「木下藤吉郎。長年の忠勤を賞し、近江国坂田郡に5万石を与える」
城からの帰り道、何度も何度もお屋形様が言われたその言葉を脳内で反芻する。墨俣からの転封という形にはなるが、新しい領地には横山城という立派なお城もあるという話だった。つまり、これで儂も城持ち大名ということだ。
え?墨俣はお城ではなかったのかって?
あれは、突貫工事で作った単なる小屋だ。一度、菜々と共にここに住めないかと検討したことは有るが、これなら岐阜のお屋敷の方がいいと言われて断念している。お金さえあれば、お城に造り替えることができたかもしれぬが、借金持ちの儂には無理な話だった。
「ただいま。今帰ったぞ」
「お帰りなさい、父上。今日もお勤めご苦労様です!」
「おお、香菜。良い子にしておったか?あと、母上と小一郎はどうしておる?」
「母上は、小一郎様に剣の稽古をつけておられます。それよりも父上。何かお城で良いことでもありましたか?」
「ん?なぜそう思うのじゃ?」
「だって、いつもよりもニコニコされていますもの」
娘にそう言われて、何気なく顔を触ってみると……なるほど。確かに顔の筋肉が緩んでいることに気が付く。ただ、めでたき話なのだ。儂は気にせずにそのまま香菜を抱き上げて、剣の稽古をつけているだろう中庭に向かう。すると……
「さあ、立ちなさい!木下家の跡取りたるあなたがその程度で討ち取られたら、家臣たちは路頭に迷うのですよ!」
……と、相変わらず厳しい声が聞こえてきた。
「菜々。今日も励んでおるのう」
「あっ!おまえ様。お戻りになられているというのに出迎えもせず、すみませぬ」
「いやいや、それは構わぬ。小一郎を鍛えることも大事なことゆえな。されど、喜べ!儂はこの度、領地替えで近江国坂田郡に5万石の領地と横山城をお屋形様より賜ったぞ!」
「横山城?それって、つまり……」
「ああ、城持ち大名だ!」
その言葉を聞いて、満面の笑みを浮かべた菜々は、そのまま儂に抱き着いてきた。そして、「おめでとうございます、おめでとうございます」と何度も繰り返して労ってくれた彼女のことが愛おしく、思いっきり抱き返した。
ただ、まだ幼い小一郎が「何があった?」と首をかしげてこちらを見ていることに気づいて、急に恥ずかしくなり、すぐに離れることになったが。
「それで、わたしたちもその横山城に移るのですよね?」
「そのつもりだ。今度はちゃんとしたお城のようだから、大丈夫なはずだ」
「……墨俣は、本当に酷かったですからね」
「それを言うてくれるな。蜂須賀がらみの借金で、首が回らなかったのだから、仕方ないだろうが」
引っ越しは、8月の半ばくらいになるだろう。このあたりの手配せのことは、宮田や神子田らともよく話しておかねばならない。何しろ、初めが肝心だ。
そうだ、この機に家臣も増やそう。確か、おっかあの身内に何人か侍になりたいとか言っていたガキが居たはずだ。小姓にでもして今から鍛えれば、小一郎が儂の跡を継いだころには、よき重臣となるやもしれん。
うん、そうしよう。小一郎のためじゃと言えば、おっかあも文句は言わんじゃろうて。
「おまえ様?」
「ああ、すまぬ。少々考え事をしておったわ。まあ、そういうわけで、これから忙しくなるし、煩わしいことも増えるかもしれぬが、よろしく頼むな」
「はい。何事もこの菜々をお頼りくださいませ。おまえ様を必ず天下人にして差し上げますわ!」
「馬鹿!声が大きい!隣のもんに聞こえたらどうする?儂はもうお屋形様に閻魔様が降臨する姿など見たくはないのだぞ!」
儂が慌ててそう答えると、菜々は笑った。




