第195話 田屋は、風林火山に動揺する
元亀元年(1570年)6月中旬 近江国虎御前山 田屋明政
『疾如風 徐如林 侵掠如火 不動如山』
紺の布地に金色の文字で記されたその旗印を……この戦国の世に生きる者で知らぬ者はいない。
「なぜだ……なぜ、武田の軍勢がこんなところにいるんだ?」
「て、敵の策略ではないのか?旗だけなら、用意できなくは……」
「しかし、目の前にいるのは赤備えだぞ……。これはどう説明する?」
「あははは……なら、説明するまでもないじゃないか。つまり、本物ということだよ!」
儂の周りから漏れ聞こえてくる兵たちの声。明らかに動揺しているのがわかる。それゆえに、ここで引くかどうか迷った。先程の弓矢は、阿閉の兵から放たれたもので、我が軍の攻撃ではない。そうだ。我らは阿閉の裏切りを知ってここまで追いかけてきたことにすれば……。
「殿?」
「作戦変更だ。我らは、これより殿に謀反せし、阿閉淡路守を成敗する!」
「え……?」
今ならば、まだ間に合うのだ。そう思って、周りの重臣たちにそう命じるが、どいつもこいつも頭が鈍くて、その意図を理解できていないようだ。だから、もう一度、はっきりと命じた。「我らは、逆賊・阿閉を討つのだ!これより他に、我が軍が生き残る道はない!」と。
「か、畏まりました。それでは、全軍にそのように……」
誰かがそう返してきたのは聞こえたが、それはどうやらもう手遅れの様で、今度は背後から怒号が聞こえ始めた。何かと思っていたら、天海とかいう坊さんが率いた百名余りの抜刀隊が今度は斬り込んできたと知らせが入る。
「くそ……時機を逸したか。仕方ない!全軍を二手に分けてあたるぞ。三太夫、そなたは背後の敵にあたれ。儂は残りを率いて、前面の赤備えに対することにする!」
「承知!」
但し、そう命じはしたものの、この戦いはかなり危ういものになるだろうことは予感した。それゆえに、儂は味方の将兵を鼓舞して、前面の敵と戦うように叫びながら、ひとり退路を探した。例え生き恥を晒すことになろうとも、命あっての物種である。
「いたぞ!あれが敵将、田屋新三郎だ!」
しかし、そんな願いも虚しく、そんな声が聞こえるほどに敵は近くまで迫って来ていた。遠くからは、「阿閉淡路守、この山県が討ち取ったり!」という威勢の良い声も聞こえて、いよいよヤバい展開だ。
「殿!ここは、某らが引き受けますゆえ、どうかお逃げくださいませ!」
近くにいた中庄がそう言って殿を引き受けると言ってくれたが、言われるまでもなく儂は逃げるつもりだ。しかし、逃げるにしてもどこに逃げればいいというのか。後方は、抜刀隊が暴れているし……行き先が見つからない。そうしていると……
「田屋新三郎殿ですよね?ふふふ、その首貰いますよ」
儂の前にド派手な衣装を纏う傾奇者——前田慶次郎がその姿を現した。だから、儂は最早これまでと思い……馬から降りて土下座した。
「許してください!出来心だったんです。どうか、どうか……お命ばかりはお助けを!!」
その瞬間、この戦場の時間が止まったように思えた。きっと、敵も味方もこの情けない儂に呆れているのだろうが、これが狙いだ。
(やれる!)
目の前の前田慶次郎の口からため息が零れたのが聞こえた瞬間、儂は抜刀してその首を刎ねんと狙った。しかし……この渾身の一撃も、煙管によって止められてしまい、さらにもう一度盛大なため息を吐かれてしまった。
「流石は、裏切り者の田屋殿。やることなすこと、最後まで汚いですな……」
そして、次の瞬間、顔面を思いっきり馬に蹴飛ばされて、あまりの痛さと衝撃に、儂は意識を手放した。




