第194話 寧々さん、蜂須賀丸に立て籠もる
元亀元年(1570年)6月中旬 近江国虎御前山 寧々
京極高吉公、挙兵——。
その知らせ自体は、予期していたことなので驚きはないが、問題はその兵力だ。鎌刃城の堀家が突如方針を変更させて、京極側に付くことを表明したため、姉川以南の国人領主たちが続々と上平寺城に駆け付ける結果となり、今では2千を越える規模となっていた。
もっとも、佐和山城の磯野殿が寝返らずにいてくれたことは不幸中の幸いで、長政様は討伐に自信を見せて今朝方、4千の兵を率いて御出陣された。これで勝利は疑いないはずだ……そう思いたいが、果たして本当にそうなるのか。
「寧々様。赤備え、準備できました」
「ご苦労様、偽・山県。わかっているわよね?この日のために用意したあれも出すのよ」
「本当に出していいんですか?後でバレたらまずいことになりませんかねぇ……。あと、いい加減、偽者呼ばわりは止めて欲しいのですが……」
「大丈夫よ。バレたって、態々ホンモノが甲斐から文句を言いに来たりはしないでしょ。あちらも忙しいでしょうし。それと……偽者呼ばわりされたくなかったら、本家顔負けの武勇を示すことね」
え?何をしているのかって?
それは、万が一にも田屋様や阿閉殿が裏切って、長政様の背後を襲ったり、あるいはこの小谷に攻め込んできた時に対する備えだ。もちろん、現時点でお二方が黒である証拠はないが、わたしたちは若狭から送ってもらった5百の兵で、この蜂須賀丸に潜んでいる。
「……ところで、無人斎。樋口殿に関する情報は入ってきていないの?」
「今のところは」
「そう……」
堀家の寝返りにあたって、家老であった樋口殿が行方知れずになっているという知らせが歩き巫女を介してわたしの元に届けられているのだが、問題は生死もわからないということだ。
「しかし、寧々様。状況から考えれば、樋口殿は堀家で始末されたとみるべきでは?」
「始末されたとは限らないじゃない。地下牢に幽閉されていたり、あるいはどこかに落ち延びられていたということだって……」
「左様ですな……」
わかっているわよ、無人斎。そんなに憐れみを込めた目で見なくても、たぶんもう、この世に樋口殿はいないということは。だけど……それでも、人の感情は複雑で、簡単には割り切れないのだ。だから、もう少しだけわたしの我儘に付き合ってもらいたい。
「引き続き、頼むわ。どんな小さなことでもいいから、わかったら教えて」
「畏まりました」
そして、そんな気持ちも理解してくれたのか。無人斎はそれ以上のことは言わずに、こうしてまた引き受けてくれた。
「寧々様、あれを!」
だが……それからまもなくだった。西の方角から、軍勢らしきものがこちらに向かって近づいてきているのが見えた。
「旗印は……田屋様と阿閉様のものです!如何なさいますか?」
「慶次郎!手筈通り、訊いてきてもらえるかしら?味方なのか、それとも敵なのかと」
「はっ!承知仕りました」
黄金色の鎧に、真っ白な鳥の羽を重ねて作った陣羽織。手にはお決まりの朱槍を握って、慶次郎は松風に乗って颯爽とこの砦の前に立ち、煙管を吹かした。そして……ある程度敵の姿が大きく見え始めたところで、大声で問うた。「貴殿らは、何用でここに参られたのか?」と。しかし……
「どうやら、敵確定ね」
返ってきたのが無数の弓矢であったことから、わたしは決断した。赤備えを出陣させることを。
「山県!頼んだわよ!!」
「お任せあれ!」
威勢よくわたしの命令に答えた山県源内は、真っ赤な鎧に統一された配下の騎馬隊百名と共に慶次郎を援護するために城外に出た。武田菱の旗を背中に靡かせて。
そして、わたしの方はというと、用意していた軍旗を敵にはっきりと見えるように、この本陣に打ち立てた。
『疾如風 徐如林 侵掠如火 不動如山』
それは……甲斐の虎、武田信玄公の軍旗そのものであった。




