第189話 寧々さん、死者に決断を求めるなと叱る
元亀元年(1570年)5月中旬 近江国小谷 寧々
「どう?少しは落ち着いたかしら?」
「ありがとうございます……」
わたしの立てた茶を口にして、樋口殿はそう言葉を返してくれた。もう涙は乾き、かつてのお姿と左程変わりない様子だが、わたしは勘づいている。おそらくは、国替えのことで悩み、この屋敷にやって来たのだろうと。
「それにしても、相変わらずの見事なお点前ですね」
「うふふ、そういうあなたも変わらずお世辞が上手なようね」
「いえ……お世辞ではなく……」
わかっている。樋口殿がお世辞で言っているわけではないことくらいは。
(さて……どう切り出すべきか)
但し、変に国替えの話題に触れて、警戒心を抱かせてしまえば最後。これからの会話は上辺だけのものに終始して、実りを得ることはまずないだろう。それゆえに、わたしはこうして『たわいのない会話』の中できっかけを探している。
……そう、探しているのだが、中々見つからずにいる。
「なあ、樋口殿。貴殿は何か悩みがあって、ここに来たんじゃないのか?」
しかし、そのきっかけは、何も知らない慶次郎が単刀直入にいきなり踏み込んだ言葉を掛けたことによって見つかることになった。無論、その時は慌てたが……
「実は、寧々様。ご存じだとは思いますが……」
案ずるより産むが易しとはこのことだ。樋口殿はそう前置きをして、国替えを長政様から打診されたことと、それを受けるべきか否かで悩んでいるとわたしに悩みを打ち明けてくれた。
「どうすれば、よいのでしょうか。どちらを選ぶのが……遠江守様に顔向けができる選択なのでしょうか?」
「遠江守様に顔向けねぇ……」
堀遠江守秀基様。うちの人——政元様の傅役で、この樋口殿の主だったお方だ。その方がもし生きていたら、果たしてどちらの選択をするのか。考えてはみるが……そもそも、わたしよりも付き合いの長い彼にわからないことが、わかるはずもない。
しかし、一方で思う。死んだ者からすれば、「そんなこと知るか」というのが答えではなかろうかと。わたしだって、前世で死んだ後のことを利次あたりから今更相談されても、「アンタが思うようにやりなさい」というだろうし……。
だから、わたしは樋口殿に「遠江守様は、きっと『死んだ後まで一々聞きに来るな』と言うと思うわよ」と告げた。そして、その上で自分はどうしたいと思っているのかを訊ねた。
「某がどうしたい……ですか?」
「そうよ。もういない人に責任を押し付けようとしないで、自分で考えないと。そうしないと、だれが次郎殿の代わりに判断するのよ!」
家老として後見しなければならないんだから、しっかりしなさいと励まして、わたしは決断を促すと、樋口殿は悩んだ末に……「国替えは、やむを得ないと考えています」と答えてくれた。
「ならば、結論が出た以上、もう迷う必要はないわね。堀家は越前への転封を受け入れる……そう、磯野殿に説明してもらえないかしら?」
「磯野様に……ですか?」
何でそこで磯野殿の名が出るのかと樋口殿は訝しんでいるが、長政様は堀家が転封に応じれば、磯野殿も続かざるを得ないだろうと言っていたのだ。それほど、南部では堀家の影響力は大きいと。
「お願いできないかしら?」
その事も説明して、わたしは樋口殿に改めて協力を求めた。磯野殿が国替えに応じれば、評定衆の顔ぶれで強く反対するのは、田屋殿と阿閉殿だけになるというのが長政様の見通しで、それならば反乱を起こされても対処は可能だとして。
「わかりました。寧々様が左様に仰せになるのであれば、尽力いたしましょう」
樋口殿はこうしてわたしの要望を受け入れてくれた。そして……思惑通りに事が進んだことを知らされたのは、それから3日後のことだった。




