第186話 寧々さん、国替えを告げられる(前編)
元亀元年(1570年)5月中旬 近江国小谷城 寧々
朝倉が滅び、元号も『元亀』に改元された5月の半ば。わたしは、越前から帰国なされたばかりの長政様に呼ばれた。
「一体、何かしら?」
まさか、また浮気がバレたから、お市様に取り成してもらいたいとでもいうのかしら?……などと思いながら、お城の廊下を歩いていると、磯野殿と樋口殿が正面からこちらに歩いてきているのが見えた。但し、お二人ともどこか不機嫌そうにして。
「どうしたのですか?お二人とも」
「あ……これは、寧々様。ご無沙汰しております」
わたしの問いかけに答えたのは樋口殿で、磯野殿はブスッとしたまま軽く頭を下げるだけで何も話さなかった。もちろん、だからといって咎め立てなどはしないが、それだけであまりよくない事態が生じていることは理解する。
「これから、殿に呼ばれているのですけど……その様子だと、碌な話じゃなさそうね」
「はい。碌な話ではありませんでしたね。殿は……」
「おい、樋口。それはまだ決まったわけではない。そうであろう?」
昔の調子で、わたしに説明しようとした樋口殿だったが、それに磯野殿が待ったをかけた。すると、どうやらその判断を支持したようで、樋口殿はわたしに申し訳なさそうに言った。
「……そうでしたな。寧々様、すみません。磯野様が言われた通り、まだ決まった話ではないので、今は申し上げるわけにはいきません。この後、殿に呼ばれているというのなら、直接お訊ねを……」
「わかったわ。ごめんなさいね、気を遣わしてしまって。あ……そうそう。また昔のように気軽にうちに寄ってくださいね。うちの人は若狭だけど、歓迎するから」
「ありがとうございます。では、そろそろ……」
「ええ、ではまた……」
樋口殿とは、遠江守殿が亡くなられて以来、疎遠となっている。政元様に聞いたところ、幼き秀村殿の補佐で忙しいから、中々鎌刃から離れることができないというのが理由だそうだが、こうして他人行儀にすれ違っていく彼の背中を見て、わたしは寂しく思った。
ただ……そんな樋口殿が態々小谷にまで来た理由がこの先にいる長政様にあることを思い出して、わたしは気持ちを引き締めた。また厄介ごとの臭いがプンプンするのだ。
「殿、寧々にございます」
「来られたか。さあ、どうぞ中に入ってくれ」
「はい……」
正直な気持ちとして入りたくはなかったが、ここまで来てそれはできずにわたしは中へと踏み出した。部屋の中には長政様だけが居て、他の方の姿はない。どうやら、相談事とは密を要することのようだ。
「それで……御用の向きは?」
「実はな、此度我が浅井家は、織田弾正忠様より国替えを命じられた。北近江35万石を譲る代わりに、越前一国68万石を得ることとなる」
「この北近江を手放されるのですか!?」
全く思いもよらぬお言葉を耳にして、わたしは条件反射のようにそう答えた。なるほど……先程、磯野殿や樋口殿が不機嫌そうにしていたはずだと思いながら。しかし、お二人はまだ決まっていないとも……
「そうか。磯野も樋口もそう言っていたか……」
「はい。先程廊下ですれ違ったときに、そのように……」
すると、長政様はため息を吐きながら、わたしに説明した。二人には、受けなければ浅井はこれ以上大きくなれないが、それでもいいのかと言ったそうだ。つまり、磯野殿も樋口殿も、現状のままでよいと思うのなら、国替えは無しにできると誤解しているようだとわたしは理解した。
「それでは、国替えは確定なのですね?」
「ああ……これは、浅井家が織田政権下で有力大名として生き続けるためには、やらねばならぬことだ。寧々殿にも、左様に心得て頂ければと思う」
そして、長政様は国替えの意義をわたしに続けて説明してくれた。それは、新しい領地を長政様から家臣の皆様に与えることで、これまでの国人連合の盟主と盟友の関係から脱皮して、主従のけじめをはっきりさせるとか。
加えてそれは、2年前の上洛戦で家臣たちの抵抗に遭って思うように兵を集めることができなかった……苦い経験に基づいているとも。
「しかし……それで、わたしに何をせよと?」
「皆を抑えるためには、寧々殿のお力がいるのだ。だから、次の評定から、是非加わってもらいたいのだ」
「はい?」
だから、何でいきなりそうなるのか。女は政に口を挟むなと、言ってなかったのかしら。
わたしは理解が追い付かず、その真意を長政様に訊ねるのだった。




