第179話 無人斎は、理解してもらえる
永禄12年(1569年)1月下旬 近江国小谷 武田無人斎
「おぎゃあ!おぎゃあ!おぎゃあ!」
……無事に産まれてくれて、儂はホッと胸をなでおろした。最悪の場合は、母親の命か子供の命か、いずれかを選択せねばならぬと覚悟していたが、母親の方も今のところは、その容体は安定しているようであり、心配はなさそうだった。
そのため、儂は自分の役目が終わったことを悟り、部屋を出ようとした。しかし……
「加奈!加奈は無事か!」
左程長くはない廊下ではあるが、こちらに向かって走って来る慶次郎の姿を見て、儂はため息を吐きながら、すれ違いざまに足を出して、転ばしてやることにした。
「うおっ!」
そして、慶次郎は余程前が見えていなかったのか、見事なまでに足を引っかけてしまい、前に向かって派手に転倒した。
「な、何をなさるか!」
「あほう。貴様の妻に今必要なのは、安静にすることだぞ。なのに、そのように騒ぎおって……」
まあ……安静が必要なら、儂も足を出してこかすなよということにもなるが、そこはあえて目を瞑ろう。とにかく、今はこの男を落ち着かせるのが先だ。
「いずれにしても、母子ともに無事だ。あと、女の子だ。おまえは、戻って名前でも……」
「無事なんですね!とにかく、加奈も無事なんですね!?」
「あ、ああ……どちらも無事だ。だから、おまえは戻って……」
「加奈ぁ!」
「だから!人の話を聞けって!!」
しかし、儂の願いも虚しく、慶次郎はそのまま加奈殿のいる部屋に突入していった。まあ……こうなると、もうできることはないので、儂はそのまま玄関に向かって進む。せめて、風呂には入りたいから、どこか近くに温泉でも湧いていないのかと思いながら。
「無人斎」
「これは、寧々様。来られていたのですか」
「ええ……。もし、噂通りに加奈殿のお腹を裂かれてしまったら、慶次郎が気の毒だからね」
それはきっと、冗談で言っているのだろうとは思ったが、最悪の場合はそうせざるを得なかっただけに、儂は苦笑いを浮かべた。そして……これが話の核心だろう。寧々様は続けて訊ねる。「一体あなたは何をしたのか」と。
「何しろ、あなたって言葉が足りないでしょ。だから、教えて。何を加奈殿にしたのかを」
「そうですな……産婆の真似事をしたのは初めてではなかったので、その補助を。あとは……」
「あとは?」
そこから先は、言うかどうか迷った。あまり、聞こえのよい話ではないのだ。
「いいから言って。怒らないし、驚かないから」
「……万が一の時は、せめて子だけでも救うために、加奈殿のお腹を裂こうとその準備を。その術は、既に甲斐で死んだ妊婦を相手にやったことがありまして……」
「なるほど。それがあなたの悪名の原因なのね?そして、もちろん……人助けのためにやったことなのよね?」
「当たり前でしょう。某がそのような悪人に見えますかな?」
「見えないことがないから、困っていたのよね。だから……あなたは、何でもきちんと話すようにしないと。これまでも、多くの誤解を生んで、損してきたのでは?」
誤解を生んで、損をしたか……。痛い所を突いてくるなと正直に思った。
晴信や家臣たち、妻や子ら、今川の孫や良き茶飲み相手であった寿桂尼殿。そういった懐かしき者たちの顔が脳裏をよぎり、その言葉が正しいことを認めざるを得なかった。そう……言葉が足りなかったから、気が付けば皆、儂から離れていったのだと。
「……そうですな。寧々様の仰せの通り、某はもっと話すべきでしたな」
「でしょうね。ならば……これからは、主であるわたしには、きちんと話してくれるわよね?」
「もちろんです」……そう言いかけて、気づいた。今、寧々様がご自分のことを「主であるわたし」と仰せになられたことを。
「それは……某を直臣と認めて頂いたと受け取ってよろしゅうございますか?」
だから、儂は念を押すように確認した。その認識で間違っていないことを。すると、寧々様は頷かれた。「加奈殿とその子を救ってくれた恩には、報いなければなりませんから」と照れながら。どうやら、言葉が足りぬのは、この方も同じのようだ。




