第177話 寧々さん、叡山で愉快な仲間を得る(後編)
永禄12年(1569年)1月中旬 近江国坂本 寧々
「ちょっと……からかうのは止めてくださいよ」
「そうだな。普通なら考えられぬことよな。だがな……」
義輝公は、このまま『前の将軍』で居続けることの危うさを語った。叡山に籠り、こうして世俗と関わらないように過ごしてきたにもかかわらず、幾度となく三好の放った刺客に襲われ、挙句の果てに……ご子息であった乙若丸様を守り切れなかったと。
「これは、元々そこにいる無人斎が考えてくれた策であった。隠居して叡山に入っても、どうせ三好は後顧の憂いを除くために命を狙ってくるのだから、更に名を変えて、将軍としてはあり得ない生き方をするべきだと。例えば……誰かの家来になるなどな」
そうすれば、さっきわたしが思ったように、まさか将軍だった男がそんなことをするはずがないという固定観念が三好や他の者たちから、身を守ってくれるはずだと……無人斎殿は京を去る義輝公に餞別の言葉として贈ったらしい。
ただし、献策を受けた当時は、そこまでの危機感もなければ、覚悟も固っていなかったため、義輝公はこの献策を結果的に実行には移さなかったようだが……それだけに、乙若丸様を失った今となっては、後悔されているようだった。
そうなると、わたしとしても突っぱねるわけにはいかなかった。話の流れだと、陽姫様と撚りを戻して一緒に暮らすことを望んでいるようなので、お世話になった近衛様のためにも、協力したいと思った。
「では……前の将軍、足利義輝公は、叡山の尼僧と浮気した挙句、ご正室の陽姫様に刺されて死んだということで……」
「え……?死んだことにするにしても、何?そんな酷い死に方は……」
義輝公は間髪入れずに文句を言ってくるが、もちろん却下である。もうわたしの家来になった以上は、遠慮する必要はないのだ。
「あの……それなら、わたしも死んだことにした方がいいですよね?」
「そうですね。ならば、陽姫様は……死んだ義輝公のご遺体をバラバラにして細かく砕いた挙句、精神をお病みになられて、滝に身を投げたことにしましょうか?」
「あ……それ、怨霊になりそうで面白そうですね!」
いや……何が面白いのかはわからないけど、本人がそれでいいのならば、何も言うことはない。義輝公は、御自分の扱いがより酷くなったことに続けて文句を言っているが、とにかくこれで話はまとまった。あとは、この二人を何と呼べばいいのかだが……
「わたしは変わらず『陽』で良いと思うのですが?あまり、京では名が知られていませんし……」
「確かに、誰もが御台様って呼んでいましたわね」
ならば、陽姫様は変えなくても問題ないだろう。そうなると、問題は義輝公だが……
「俺は、随風を改め、名を天海としようと思う」
はい。これで、未来で糞タヌキの顧問僧だったことが確定しました。だから、「よくも豊臣家を滅ぼしてくれたわね」とわたしは天海をにらんだ。
「え……な、なにか?俺が何かしたのか?」
「……なんでもないわよ。今はね」
「今は……って」
もちろん、天海となったばかりの義輝公にそんな怒りをぶつけても意味がないことは承知している。つまり、きっと誰にもわからないけど、これはわたしなりの冗談だ。
「それでは、話がまとまったところで、我ら改めまして、寧々様に忠誠を誓いたく存じますが、よろしいでしょうか?」
「……よろしくないわよ、無人斎殿。あなた、何どさくさに紛れて、こっちの側に入ってこようとするのよ」
「されど……某は、そちらの天海様の家来でしてな。主があなた様の家来になった以上、お仕えするのは筋かと……」
なるほど。今度はそういう手で来たのかと、わたしは呆れながらも、その手に乗るかとばかりに再び断ろうとしたが……
「おお、無人斎!そなたほどの男までも、寧々様にお仕えしたいと申すのか!」
などと、少々気になる言葉を天海が口にしたので、わたしは訊ねた。この無人斎殿は、一体何者なのかと。
「あれ?寧々様はご存じなかったのか。この無人斎は前の甲斐の守護……武田信虎だ」
「武田……信虎?前の甲斐の守護?」
現在、甲斐国の守護は武田信玄だ。しかし、その前といえば……ひとりしかいない。
「うそ……なんで、妊婦の腹を容赦なく斬り裂きまくった虎が、こんな所で野放しになっているの?」
ようやくわかったその正体が、予想を斜め上に行く途轍もない『ろくでなし』だったことに驚いて、わたしは妊娠していないけど、お腹の防御を固めたのだった。




