第171話 無人斎は、規格外の連中に驚く
永禄12年(1569年)1月上旬 京・本国寺 武田無人斎
「え……?うそ、何かみんな逃げているけど、もう終わり?」
隣でそう言って驚く寧々殿だが、それ以上にこの結果をここにいる皆が驚いている。何しろ、さっき撃ち殺したのは、この反乱軍の首謀者と言っても過言ではない三好日向守で、しかも浮足立つ味方を鼓舞して目立っていたとはいえ、ここからだとかなりの距離があり……
「無人斎様……何なんですか、あの化け物女は。普通、当たらんでしょう……」
……などと、山県や宇野といった若い連中が畏怖の念を抱くのは無理からぬ話だと儂も思う。かく言う儂も以前の二条御所で同じ気持ちを抱いたのだから。
ただ、それは一先ず置いておいて、儂は気持ちを切り替える。三好日向守を討ち取ったとはいえ、まだ三好の軍勢は数の上では優勢なのだ。釣竿斎や石成といった大将たちが駆けつけて、体勢を立て直してしまえば、我らは再び不利な情勢に追い込まれてしまうだろう。
それゆえにここが勝負と、儂は寧々殿にここを離れて兵を率いて打って出ると告げた。
「追撃ですか?」
「まずは釣竿斎と石成の軍勢を横から突こうと思う。それで、慶次郎を借りたいのだが、構わぬか?」
「それは構いませんが、援護射撃は必要ありません?」
「乱戦になるだろうから、それは構わない。ゆえに、寧々殿は上様に状況をお伝えいただけないかな?どうせ地下の米蔵に隠れているはずだ」
「わかりましたわ。では、ご武運をお祈りしておりますわね」
本当に物凄い女だと思う。儂があと50年若ければ、きっと嫁に来てくれと、死ぬ気で口説き落とそうとしたであろう程に。さすれば、晴信のような親不孝な息子を持たずに済んだものを……。
「無人斎様……」
「ああ、済まぬ。考え事をしていた」
見れば、寧々殿は既に梯子を下りたらしく、この場には儂と山県源内、宇野弥七ら若狭衆と呼ばれる連中しか残っていなかった。それゆえに、号令を下して順番に下に降りて、馬小屋に向かう。すると、そこには細川兵部が立っていた。
「細川殿、戻られたのですか?てっきり、また逃げたのだと思っておりましたが……」
「何を申されますかな。寧々殿と慶次郎殿がこの本国寺に入ったと聞いて、逃げる必要があると……?」
なるほど。つまり、これほど勝利を保証してくれる者はいないわけで、当然だが皆の士気も上がる。そして、儂は目的であった馬の使用を願い出た。断られても持って行くつもりであるが、一応は筋を通した方が後々面倒なことにはならないと考えて。
「では……某も加わりましょう」
「細川殿もですか?」
「いかにも。某は、前の上様……義輝公と共に剣を学んでおりましてな。きっとお役に立つと思いますぞ」
ニッコリ爽やかに笑みを見せて、そう言って退けた細川殿だが、その魂胆は明らかである。勝ち馬に乗って、きっと恩賞に預かるのが目的なのだろう。だが、例えそうであっても、今の幕府で出世など望んでいない儂にとっては関係のない話だ。
それゆえに、馬を提供してもらうことを条件に許可を出した。
「慶次郎」
「おっ!ご老体。ご無事だったようですな」
「ああ、そちらこそ見事な一閃であったな。それでだ、これから騎馬でまずは三好釣竿斎の軍勢、続いて石成主税の軍勢を横から突いて崩そうと思う。寧々殿の許可は取ってあるゆえ、ついてきてもらえるかな?」
「面白そうですね。承知しましたよ。それで、馬は……?」
「とびっきり良き馬を連れてきた。何でも、義昭公の物らしい」
「えっ!?いいんですか!」
これについては、慶次郎も驚いているが、儂も同様である。しかし、細川兵部が「戦いの中でどこかに逃げたことにする」というので、それ以上は考えないことにした。そして、慶次郎に馬の名前を告げた。「松風」と。
「松風ですか……良き名ですね」
気に入りましたと言って、慶次郎はすぐに跨りそのまま外に駆け出して行った。嬉しいのはわかるが、これでは作戦などあったものではないと、儂らは慌てて後を追った。しかし、それは無用な心配で……
「あははは……もう寧々様と慶次郎殿だけいれば、どんな戦も勝てるのでは?」
そんなことを呟く山県と同じ思いで、慶次郎が通った後に流れる血の川を我らは遡る様に、追いかけたのだった。




