第167話 寧々さん、ご宸筆を賜りたい(後編)
永禄11年(1568年)12月下旬 京・内裏 寧々
「左少将に、『弾正忠をこの先も支えて欲しい』とな?つまり……そなたは、左少将がこのままだと裏切るというのか?」
「必ず裏切るとは限りませんが、このままではいずれ我が浅井家は織田家の風下に立つことになります。それゆえ、場合によってはこれを良しとせず、無謀な戦に及ぶ可能性があるのではと、心配しておりまして……」
それゆえに、勤王の志が厚い長政様に、主上よりご宸筆を賜ることで楔を打ち込みたいと正直にわたしは申し上げた。二条様は怒り心頭に「黙って聞いて居れば図に乗りおって!」と激高されたが……対して主上は、お笑いになられた。
それゆえに、悪い結果にはならないだろうとホッと胸をなでおろしていると、案の定「良かろう」という返事が聞こえてきた。
「そなたの願い通りに、左少将には宸筆を下すことにしよう。それにしても……そなたもそこにいる二条に劣らず、苦労をしておるのだな?」
「お上!」
「真のことではないか、二条。まあ……近頃は、悩みの種だった義昭が心を入れ替えた故、少しは心配事も減ったかもしれぬが、そちも先日までは同じではなかったのかな?」
「……とんと記憶にございませぬ」
「あははは!では、そういうことにしておいてやろう。それでだ、左兵衛局よ。話は変わるが……その義昭より、そなたに関することで奏上が届いておる」
「奏上?」
一体何のことだかわからず、わたしは二条様を見た。すると、「義昭公は、そなたを従三位にすることを望まれておる」と、疲れた顔でそう言われた。
「従三位ですか?」
「そうだ。そなたは以前断ったが……断ったがために困ったであろう?」
「はい。それはもう……」
今回の参内を成し遂げるために、色々あったことを思い出して、わたしは主上のお言葉を肯定した。しかし、なぜ義昭公の名が出てくるのかは不思議であった。慶次郎の話だと、打ち首になってもおかしくない程の屈辱を与えたというのに。
「それで、此度は受けてくれるな?」
「はい、此度はありがたくお受けいたします」
「うむ。……では、この場にてそなたには、従三位の位階と『春日局』の名号を与えることとする」
前も思ったが、『春日局』というのは、どこかで聞き覚えがあった。すると、この名号は、3代将軍義満公の乳母や近い所では、義輝公の乳母であった亡き陽春院様に与えられたものだったと、二条様は教えてくれた。
そして、その名号を義昭公が推薦したのは、自分の乳母のような存在になって欲しいという意味が込められているのだと、笑いながら。
「あの……乳母って、わたしの方がかなり年下だと思うのですが?」
「しかし、そなたは義昭公のおむつを換えるかのように、ふんどしをはぎ取ってアレに徳利を……ぷっ!」
「なっ!?あ、あれは……そう、とんと記憶にございませんわ!そんな、お酒に酔った時のお話をされても困ります!」
今のわたしは、きっと茹でだこのように顔を真っ赤にしているだろう。しかし、ここで引いたら女として終わるような気がして、断固として義昭公の乳母のような存在になるのだけは、お断りしようとした。
しかし、『綸言汗のごとし』ということで、主上より『与える』というお言葉が出た以上は、最早撤回は不可能だそうだ。よって、わたしはこの後、『春日局』と少なくともこの宮中では名乗ることになった。
ただ……ここまで恥をかかされて、わたしも黙ってはいない。
「畏れながら、主上にもう一つお願いの儀が……」
それは、左少将様とうちの人の官位を上げて欲しいという個人的なお願いだ。「どうせ名前だけだし、減るもんじゃないでしょ!」と申し上げると、慌てる二条様とは異なり、主上は大笑いして、「考えておく」と言ってくれたのだった。
 




