第166話 寧々さん、ご宸筆を賜りたい(前編)
永禄11年(1568年)12月下旬 京・内裏 寧々
清涼殿へ向かう廊下を歩きながら外に目をやると、雪が降り始めていた。しかし、幸いなことに今のわたしは十二単を纏っており、その着物の分厚さで寒さは幾分か和らいではいた。もっとも、だからと言って、このままこんな重たい物を着続けたいとは思わなかったけれども。
「左兵衛局。久しいの。何年振りであったか?」
「3年振りかと……」
「おお、そうであったな。それにしても……そなたの言うた通りになったのう。その慧眼、朕は感服したぞ」
「恐れ入ります」
それは、前回ここで信長様が覇者となると申し上げた話のことを言っているのだろうと思い、わたしは短くそう答えた。御簾越しなので、ご様子は窺うことができなかったが、声の感じからすると3年前と変わった様子は見られない。お元気なご様子だ。
だが、そう思っていると、横に侍る関白になられた二条様が「織田殿がこのまま覇者となるとは、まだ決まったわけでは……」と主上に申し上げた。
「ふふふ、左兵衛局よ。前の話は、この二条にも伝えておるのだがのう。この者はこのように諦めが悪うて困っておる」
「お上!」
「何を焦っておる。事実ではないか。そなたは、やたらと義昭の肩を持つが、あやつというより、足利が再びこの日の本をまとめ上げて、戦の無い世を作ることができると、本気で思うておるのか?」
「……義昭殿は、そこにいる左兵衛局殿に諭されて、心を入れ替えてまじめに政務に取り組まれるようになられており……」
諭した?徳利をアレに被せて叱られただけのような気がするが……二条様の様子からすると、冗談を言っているようには見えない。それゆえに、それが事実であれば、もしかしたら歴史の流れは少し変わるのかと思ったが……それでも主上は首を左右に振った。
「二条よ。最早、義昭一人が努力してどうにかなるようなものではあるまい。それに、あの者が先日ここで言うた『戦ではなく、話し合いによって揉め事を解決する政』だが……それもとどのつまりは、大名どもを従わせるだけの力が必要だ。違うか?」
「それは……」
「左兵衛局、そなたはどう思う?」
「畏れながら、わたしは主上の申される通りだと思います。足利では、それだけの力はございませぬかと……」
「左兵衛局殿!」
余計なことはいうなとばかりに、二条様はわたしを睨んだが、ここで答えないのは主上に対する不忠であると考えて、わたしは自分の発言を撤回しない。それどころか、逆に本気でそのようなことが可能と思っているのかと、二条様に問いかけた。
「……織田殿をはじめとする諸大名がこの先も義昭殿をお支えすれば、可能かと」
「話になりませんね。本気でそうなるとお信じで?」
「…………」
どうやら、答えが出た様だ。すると、主上もご納得されたのだろう。御簾越しだが、大きく頷かれているのが見えた。
「主上、畏れながらお願いの儀がございます」
そして、こうして結論が出たところで、その流れと勢いに任せて、本題を切り出す。大丈夫だ。わたしの願いは、信長様を覇者たる道に推し進めるためにも、必要な話題だ。
「願いの儀とは?」
「はい。誠に畏れ多き事ではありますが、我が主であります浅井左少将に、ご宸筆を賜りたく……」
「宸筆とな?」
「左兵衛局殿!無礼であらしゃいますぞ!!」
わたしの不躾なお願いに、二条様はすぐに反発されて声を挙げるが、主上は意に返す様子もなく笑い、逆に「何と書けばよいのか?」と訊ねてきた。それゆえに……
「どうか、来年年始の上洛をした際には、『織田弾正忠をこの先も支えてやってほしい。そなただけが朕の心の頼りだ』と、賜りたく願います」
わたしは、此度の上洛で最大の目的だった言葉を……こうして、主上に申し上げたのだった。




