第161話 寧々さん、義昭公の誘いを受ける
永禄11年(1568年)11月中旬 京・本能寺 寧々
藤吉郎殿は心配していたが、わたしは義昭公の元に赴くことにした。『虎穴に入らずんば虎子を得ず』ともいうし、それにもしそういうことをなさるのならば、二人きりの密室で行うはずだ。それならば、何が起こっても誰にも知られることはないのは、わたしの方としても同じで……
「寧々様。公方様の息の根を止めるのは、あくまで最終手段ですぞ。わかっていますよね?」
「わかっているって。大丈夫よ、慶次郎。おしりを触られたくらいでは、殺したりしないから安心して」
まあ……いざとなれば、急な発作による病死ということにして、周暠様に16代将軍になっていただければいいだけのことだ。
「寧々殿。上様のお召しにございます」
「わかりました。では……」
そして、因縁のある細川兵部が呼びに来たので、わたしは慶次郎をこの控室に残して、義昭公の待つ部屋へと向かう。内容が密を要することであるため、広間ではなく離れにある部屋で会って下さるということだが、それだけに下心は見え見えだ。
ただ……一つだけわからないことがある。それは目の前を歩く細川兵部がこの件に関わっていることだ。
「ん?寧々様。どうかなされましたかな?」
「いいえ」
わたしの知る限り、この人は沈むと分かればあっさりと逃げ出す男ではあるが、一方で誇り高い男であるため、このような汚れ仕事からは通常距離を置くはずなのだ。知っていても知らんぷりをするなどして。
それゆえに、わたしはこの男はこの男なりに何かを目論んでいるのではないかと疑う。それがわたしの利益にかなうのか否かはわからないが……。
「上様。寧々殿をお連れしました」
「うむ。通すが良い」
「はっ!」
しかし、それは今となっては後回しだ。襖が開かれて中に入ると、そこには酒と膳が用意されているのが見えた。義昭公は、「我らは親戚同士。堅苦しいことは抜きにして、まずは親睦を深めようではないか」と仰せだが、魂胆は見え見えだ。
(さては、酔い潰してわたしを手籠めにするつもりね……)
加えて言うならば、わたしが部屋に入ると、細川兵部は続いて入ることなく襖は閉ざされた。つまり、これで密室となり、後は何が起こっても誰にもわからないということだろう。だが、密室になったのはこちらとしても好都合だ。
「上様。その前に……」
わたしは義昭公に、目的である主上への拝謁を実現するための口添えを約束して頂くように迫った。しかも、あとで酔っていて覚えていないと言わさないために、その事を文書にして頂けるようにと。
(さて、お怒りになられるかしら?無礼だとか言って。まあ……それで襲ってくるのならば、返り討ちにすればいいだけだし……)
酔っていても負けるつもりはないが、万一この酒に眠り薬が仕込まれている場合は、その限りではない。なので、わたしはできればここでケリをつけるために、義昭公を挑発したのだ。しかし……
「……あいわかった。寧々殿の懸念は最もなこと。ちょっと待っておれ。すぐに書き記すほどに」
意外なことに、義昭公は怒りもせずにわたしの願い通りに書き記すと、それを手ずから手渡してきた。「これでよいか?」と言いながら。
「……はい、ありがとうございます」
内容を確認したが、わたしの望む内容になっていて、かつ後日に言い訳できないように、花押まで記されてあった。こうなると、「では、そろそろ始めようではないか」と告げる義昭公の言葉を跳ね除けるわけにはいかない。しかも……
「ささ、まずは一献」
……と、自らわたしの杯に酌をしようとするのだ。わたしはドキドキしながらも、こうなるとその酒を飲むしかなかったのだった。




