第145話 寧々さん、般若になる
永禄11年(1568年)6月下旬 近江国小谷 寧々
「では、母上。虎哉和尚の所に行ってきます」
和尚が小谷に来てからひと月あまり。万福丸はこうしてほぼ毎日、城下の空き屋敷に設けられた和尚の学問所に通っている。
ちなみに、流石に万福丸一人のためにというわけにもいかないので、猿夜叉丸様や家中の同じ位の子供たちも一緒に学んでいるようで、それが本人にとっては楽しいらしい。そんな息子の姿に、母親としてはホッとしているのだが……
「ほら、喜太兄ぃ、行くよ」
「あ……いたたた。若、申し訳ありませんが、某お腹が痛くて動けず……」
「あのね、それ仮病でしょ。どうせ和尚様にバレるんだから、さあ行くよ」
和尚からこっそり教えてもらった話だと、万福丸もさることながら、この喜太郎も物凄い才能を秘めているそうで、鍛え甲斐があるそうだ。もっとも、ご覧の通り、本人はとても嫌そうではあるが、「いい年をして仮病ってなに?」と思わないでもない。
ただ、万福丸がこうして家を空けることになり、少し寂しくは感じている。政元様も相変わらず、どこに愛人を囲うているのかわからないけれども、不在がちだし……だから、わたしは莉々に今日も歌や琴などを教えることで気を紛らわせようと思うのだが……
「ちょっと、莉々!どこに行こうとしているのかしら?」
「え……えぇ、と……」
この莉々も莉々で、わたしから逃げようとする。しかも、ほぼ毎日だ。
まあ……許嫁の猿夜叉丸様のことが気になるのはわからないわけではないが、和尚から使いが来て、「お宅のお嬢ちゃんが男の子の格好をして、シレっと紛れ込んでいるのですが」と聞かされた時は、頭がクラッとしたものだ。
前から思っていたが、このお転婆は一体誰に似たのだろう……。
「莉々……猿夜叉丸様は、大事なお勉強をしなければならないの。邪魔をしてはダメって言いましたわよね?」
「猿はどうでもいいの!わたしが気になるのは、お兄様よ!」
「万福丸がどうしたの?」
「だって、お兄様って凄くかっこいいし、頭もいいでしょ。喜太兄ぃがいうにはね、学問所の下働きをしている茂助っていうおじさんの娘が『お茶をどうぞ』とか『汗はこれでどうかお拭きください』とか言って、色目を使ってくるらしくて……」
「そんなの絶対に許せないでしょ!」という莉々に、わたしは思わず噴き出した。いや、仲が良いことは知っていたけど、あんたはどれだけお兄様のことが好きなんだと。
「それならなおのこと、莉々も頑張らないとね。その女の子に大好きなお兄様を取られたくないんでしょ?」
「うん……取られたくない」
「だったら、歌や琴、あとお作法もしっかりお勉強しないと。さあ、着替えてわたしの部屋に……」
……そう言いかけて、今日はいつものように家を出たはずの政元様が青ざめた顔をしてわたしの前に現れた。
「おまえ様。一体どうされたのですか?そのような青い顔をなされて……」
「実は……加奈殿が妊娠した」
「え……」
わたしは今、一体何を言われたのだろう。加奈殿って、義輝公の側室の小侍従局様で……
「か、かかさま?どうかなされたのですか。そのような般若のようなお顔をされて……」
「……莉々、ごめんなさい。母はお父様と大事なお話ができたので、お部屋に戻ってくれますか?」
「ひっ!……わ、わかりました!莉々はお部屋で大人しくお絵描きしています!」
莉々が怯えて逃げるように離れて行ったが、今はそれどころではない。やはり、浮気していた!このタヌキは、腹黒くもわたしを騙して……
「はあ、慶次郎め。義輝公からの預かり人に何てことをしてくれたんだ……」
「へ?慶次郎?何で、慶次郎の名が出るのよ」
さあ、これからこのタヌキをどう煮て焼いて、夕餉の膳に載せてやろうかと思っているところで呟かれた政元様の言葉に、わたしは毒気が一気に抜かれた。だが、政元様は気にする様子を見せずに、何が起こったのかを説明した。
即ち、慶次郎が小侍従局様を義輝公から寝取ってしまったということを。




