第139話 寧々さん、衣装合わせという無限地獄に落ちる
永禄11年(1568年)2月下旬 近江国小谷城 寧々
信長様の小谷訪問は、来る3月15日と正式に決まった。そのため、城内は今、その準備に 追われている。そして、それはここお市様のお部屋でも同じで……
「ねえ、寧々。この反物で打掛ならどうかしら?」
「よくお似合いかと思いますよ。ねえ、やや?」
「ええ、お姉さまの言う通りですわ。ですので、お市様。もうそれで決めちゃいましょ」
「そう?あ……でも、こっちもなかなか良くない?」
「「………」」
もうかれこれ3刻(6時間)近くに及ぶお市様の衣装選びに、わたしもやや、そして……注文 を取るために反物を持ってきたお勝殿の御父上も、流石に疲労困憊気味だ。もう何でもいいから決めてもらいたい。
「そういえば、寧々の方は決まっているの?」
「はい。わたしの方は、これで……」
「少し地味過ぎない?」
地味でいいのだ。いくらなんでも、お市様より派手な着物など着るわけにはいかない。だから、「これにしたらどう?」とか言う言葉に耳を貸してはいけない。……というか、赤の生地に金糸と銀糸って、またど派手な……。
だが、そうしていると、廊下の方が急に騒がしくなって、小さな足音がパタパタと聞こえてきた。 何事かと思っていると、猿夜叉丸様が泣きながら部屋に飛び込んできて、「母上ぇ!」とお市様に抱き着いた。
「どうしたの?猿夜叉。莉々ちゃんたちと遊んでいたんじゃないの?」
「母上、あのね……あの暴力女がね。またボクを苛めるの……」
その一言で、わたしは頭が痛くなった。あれほど、今日こそお淑やかにするように言い含めたというのに、これは一体どういうことだと。
だが、そうしていると、後を追うように莉々がこの部屋に飛び込んできた。「ちょっと肩を打たれたくらいで泣くなんて、それでも浅井の跡取りですか!」と怒りながら。
「莉々!あんた、なにやってんのよ!」
「げ!か、かか様。……こ、これはね、違うのよ。ほら、猿夜叉ってわたしより弱いじゃない。だから……」
「だから?だから、なに?」
「……強くしてあげようと、剣の稽古を」
やはり、自分でもまずいことをしたなとは思っているのだろう。目は合わせようとせず、その声は次第に小さくなっていくが、だからと言って見逃すつもりはない。
わたしは莉々を強い口調で叱り、猿夜叉丸様に謝るように言った。しかし、そんなわたしにお市様は「もうその辺で」と言って、叱るのを止めるように求めた。
「……寧々。莉々ちゃんの言う通り、この子は強くなければなりませんわ。あの女が産んだ円寿丸とかいうクソガキに負けないためにもね。そうよね?猿夜叉」
「え……い、いや、あの……」
「そうですよね?猿夜叉丸」
「は、はい……その通りです。母上……」
結局、お市様の圧に屈したようで、猿夜叉丸様は悲しそうにそう答えた。
「ならば、莉々ちゃんの言うとおりに、鍛えてもらいなさい。母は今忙しいので、今日はもうここに逃げてきてはダメですよ?」
拒否は許さないという優しい笑みに、可哀そうなことに猿夜叉は頷くしかなく、「おば様大好き!」と、一転満面の笑みを浮かべた莉々に引き渡されてしまった。ちなみに、側室の八重殿が産んだその円寿丸様はまだ2歳なので、強いとか弱いとかはないと思う。
「さて、再開しましょうか。桔梗屋さん、この生地なんですけどね……」
それよりもこうして再び始まった衣装合わせに、わたしはまたゲンナリする。そして、今更ながらに気が付いた。さっきの機会に、「しばらく様子を見守ってきますね」とか何でも言って退出しておけばよかったのではないかと。
しかし、今となっては後の祭りだ。衣装選びという名の地獄は、このあとも延々と続くこととなるのだった。




