第126話 政元は、天下を獲れないことを悟る
永禄8年(1565年)5月中旬 近江国小谷
松永殿が帰られてからというもの、寧々の様子がかなりおかしい。
一見、頂いたあやとりの本を見ているように見えるが、その割に本が分厚いし、何よりも時折俺を見て、顔を赤くしている様子も窺えた。ただ、だからと言って覗き見るつもりはない。夫婦だからといっても、何をしてもいいわけではないのだから。
(しかし……)
そんなことよりも、俺の心の中でずっと引っ掛かっている言葉がある。それは、今日寧々が松永殿に言い放った「わたし自身がこの人を天下人に押し上げようという気持ちがない」という言葉だ。
もちろん、自分が天下人の器とか、そんなことを考えるだけでもおこがましい存在であることは俺自身が良く知っているが、だからといって、最愛の妻に口に出されて否定されたら傷つくわけで……さっきから、その真意を訊こうか訊くまいかで悩んでいる。
「はぁ……どうしたものか」
「ん?おまえ様、どうかなさったのですか?」
「え?」
寧々にそう返されて、不覚にも悩みがある様に口走ってしまったことに気が付いた。だが、ここでなんでもないと否定すべきかと考えた時、我慢していた感情の堰が切れて、自然と言葉が紡ぎ出された。
「なあ……寧々はどうして俺を天下人に押し上げようと思わないんだ」
「え?」
「ああ、すまん。これは愚痴だな。別に天下人になりたいわけじゃないんだけど、なんだかそう言われたら、俺ってつまらない男だって思われているんじゃないかって悩んじゃって……」
「ああ!ごめんなさい!そんなつもりで言ったわけじゃないのよ!!」
だから、そんなに落ち込まないと言われて、俺の心はより惨めになり凹んでしまう。すると、寧々はそんな俺の頬を両手で挟むようにして、真正面からはっきりと言ってくれた。
「いい!わたしがあなたを天下人にしたくないのは、そんなつまらない男になって欲しくないからよ!」
そして、それでも天下人にどうしてもなりたいのであればと、その道筋を示してくれた。すなわち、その第一段階として、兄上とその家族、場合によっては父上も反対する家臣も皆殺しにして、この浅井家の当主に就くという話だった。
「どうしてもやりたいのなら、すでに半兵衛が勝手に計画を立てているから実行すればいいけど……本当にやりたい?」
「いや……やりたくないです」
「でしょ。だから、わたしはあなたを天下人になんかしたくないんです。それができない優しい人だから、わたしはあなたを好きになったのだし……」
心なしか、寧々の顔も赤いが、きっと俺も同じだろう。胸の鼓動がさっきから速くなったような感じがしている。だが、同時にこれも理解した。そのような苛烈なことしないと天下は獲れないということならば、きっと兄上にも無理で……つまり、浅井家は天下を望んではいけないということを。
「……なあ、寧々。そなたの見立てでは、この先織田殿が天下を獲るということだが、やはり浅井はどこかで臣従しなければならぬのだな?」
「はい、残念ながらそうしなければ、生き残ることはできないかと思います」
「そうか。ならば、兄を含めて家中をその方向に導くのが俺の役目ということだな」
「大変なお役目ではありますが、わたしも半兵衛も慶次郎も、お支えしますので何卒……」
「わかった。では、そうなるように俺もがんばるようにするよ」
そう言って、寧々を優しく抱き寄せると、先程まで見ていたあやとりの本が床に落ちた。だから、それを取ろうと目を向けると……見開きの頁に男女が睦み合う絵が描かれているのが見えた。
「寧々……これって、松永殿から貰った本だよね?」
「は、はい……あの、これはそのう、男女がどのように睦み合えば気持ちよくなったり、あと子供ができやすくなるかを書いていまして……」
「はぁ……」
なんだか、真面目に考えてきた自分が馬鹿馬鹿しくなってきたが、そんな俺に寧々は枝垂れかかってきた。「折角なので、試してみませんか?」と囁いて。
「え……?」
「もう……鈍いんだから。要はもう一人赤ちゃんが欲しいって言ってんのよ!」
そして、初めての日の時と同じように、俺は強引に襲われて、碌な抵抗ができないまま服を脱がされて、その後あんなことこんなことされて気持ちよくなって……結局、悟るしかなかった。
嫁ひとり持て余している俺には、やはり天下は無理だと。
(第2章 北近江編・完 ⇒ 第3章 金ヶ崎編へ続く)




