第119話 寧々さん、帰還早々に……
永禄8年(1565年)3月下旬 近江国小谷城 寧々
「はあ……やっと帰ってきた」
間借りしているお義父様の隠居所にあるわたしの部屋に入った途端、腹の底からそう吐きだした。次から次に舞い込んでくる面倒ごとの数々に、心をすり減らす日々。それらの地獄のような場所から無事に生還できたことに、ホッとしたのだ。
ちなみに、義輝公より預かった小侍従局様は、城下の空いている屋敷に入ってもらっている。出産もそう遠くないようなので、慶次郎に世話を任せているが、わたしも時間に余裕があれば顔を出すことにしている。
ただ……今日は何も考えずに、このまま眠りたいそんな気分だった。しかし……
「寧々様。お寛ぎのところ申し訳ありませんが、殿がお呼びです」
「殿が?」
一体何だろうと思うが、お召しを受けては行かないわけにはいかない。部屋を出て長政様のおられる主殿に行くと……
「おお!寧々よ。俺の女神よ!ようやってくれた!!」
「え……ちょ、ちょっと!」
意味の分からぬ言葉を放ちながら、長政様はわたしが部屋に入るなり歩み寄ってきて、いきなり抱き着いてきた。流石に何をしているのかと思うが、壁に貼られている『祝!正五位下左近衛少将任官!』の垂れ幕と、漂ってくる酒の臭いから察した。
つまり、喜び余って酒宴を催して、派手に酔っ払っていると。
「殿、飲み過ぎですわ。このようなところをお市様に見られたら一大事では?」
「あははは!構うものか。余は正五位下左少将様なるぞ!嫁が怖くて浮気ができるか!!」
「あの……わたし、浮気するつもりはありませんわよ?」
「そうなのか?」と少し切なそうに訊ねてくる長政様に、一瞬だけ政元様のお顔が重なりドキッとするが、気の迷いだろう。御断りもしたことだし、すぐに離れて頂こうと押しのけようとしたが……
「あら?おまえさま。今度は寧々と浮気ですか?」
……背後から、途轍もなく冷たいお市様の声が聞こえて、震えあがった。
「お、お市様?わ、わたしは、別に浮気をしようとしたわけではなくて……」
「ふふふ、わかっていますよ。寧々は、わたしを絶対、天と地がひっくり返っても、神や仏や閻魔様、更に異国の邪神たちが全部敵に回っても裏切らない人。だから、迷惑しているのでしょう?そこの女と見れば見境の無い種馬に言い寄られて……」
「そ、そのとおりであります!」
「ならば、連れて行くわね。この人にはお仕置きが必要だから」
「ひ、ひい!ね、寧々!助けてくれ!!市を諫めてくれぇ!!」
襟首を掴まれた長政様が、わたしから引き剝がされて、そのまま何処かに連れて行かれる。残った者たちに聞くと、どうやらお城に仕えている女中に手を付けて孕ませてしまったらしく、そのことを知ったお市様の怒りを買ったとか。
(万福丸の事は、言えないわね……)
その様子から、わたしは改めてそのことを確認して、再び部屋に戻った。しかし……
「すみません、寧々様。丹波守様より文が届いております」
「文?うちの人から?」
「はい」
結局、またゆっくりすることはできず、今度は何だろうと思って、わたしはその手紙を半兵衛から受け取り、中を確認した。すると、そこには、政元様の傅役であった堀遠江守様がお亡くなりになられたと書かれていた。
「半兵衛……帰ってきたばかりだけど、すぐに鎌刃城に向かうわよ!」
さっきのこともあって疲れているが、そんなことは言っていられない。堀殿はわたしにとっても、大切な人の一人だ。せめて、葬儀には顔を出したい。
「では、輿の用意を……」
「馬の方が早いから、無用よ!着替えていくから、すぐに出立できる用意を!!」
「はっ!」
わたしはすぐに打掛を脱いで、代わりに袴をはいた。腰には義輝公より拝領した三日月宗近を差し、そのまま部屋を出て馬小屋に向かう。途中、莉々や竹松の顔を見て行こうかとも思ったが、会えば離れられなくなることは予想できたため、お義父様の部屋には寄らなかった。




