第104話 慶次郎は、鍛錬と愚痴に付き合う
永禄8年(1565年)2月下旬 京・近衛邸 前田慶次郎
初めその話を聞いたとき、何を馬鹿なことを言っているのだと思った。だが……
「たあ!」
「ぬっ!」
京に滞在する間、ご厄介になっている近衛様のお屋敷の庭で、こうして寧々様の稽古に毎日してお付き合いしているのだが、その剣の腕前は始めこそはぎこちなさがあったものの今ではすっかり上達されていて、これならば20人程度の侍では相手にならないだろうと理解した。
「やあ!」
「まだまだ!」
つまり、3年前に玄蕃頭様に言い放った言葉は、あながち間違いではないのかもしれない。
「では、お方様。そろそろ朝餉の時間ですし、ひとまずここまでにしましょう」
「はい。今日もお付き合いいただきありがとうございました。先生」
そう言って、上泉伊勢守様は朝の鍛錬を終えることを寧々様に告げる。え?俺が相手じゃないのかって?本気を出して寧々様に怪我を負わせるわけにはいかないから、3日目で辞退しているよ。決して、公方様の前に自分が自信喪失になることを恐れたわけではないから、その辺りは勘違いしないでもらいたい。
「なあ……半兵衛。これも計算していたことなのか?」
朝餉を食べ終えて、寧々様は近衛様が主催するお公家様達との歌会に呼ばれたため暇になったので、同じく暇そうにしている同僚に俺は声をかけて見た。かつては敵対した間柄であるが、一度酒を酌み交わしてからは心の友だ。妻一筋で、女遊びに誘ってもそれだけは付き合ってくれないのは、玉に瑕であるが。
しかし、そんな半兵衛からしても、寧々様の剣の腕前は想定外だったと答える。
「寧々様が公方様に怪我をさせられて、それを我々が『大人気ない』と浅井家の名を使って非難し、そのまま手切れを宣言する。そうすれば、寧々様のお気持ちにはそぐわないかもしれないが、これからこの京で起こる騒乱には巻き込まれずに済むはずだった。しかし……」
「しかし?」
「もしかしたら、寧々様は公方様を打ち負かすのではないかと今は半分程度思っている。お相手下さっている上泉様もそのようなことを昨日申されていてな……」
「うそ……でしょう?」
上泉伊勢守信綱殿は、天下に名が知れた大剣豪だ。しかも、公方様にも剣を教えられているし、そのような方がそう言われているのだから、信ぴょう性が増してくるというものだ。ああ、俺も教えを請いたい。
「だから、俺は今、寧々様が公方様をケチョンケチョンに叩きのめした後のことを考えている。しかも、御台様からの文では、負けたら公方様は将軍職を朝廷に返上して、さらに頭を丸めて隠居なされるそうだ……」
半兵衛殿はため息を一つ吐き出して、これは想定外の出来事だと心の内を俺に打ち明けてくれた。そして、最悪の場合は覚悟を決めてくれと。
「それは……そんなに不味いことになるのか?」
「勝てないと思ったからあのようなことを意趣返しで言ったが、今、公方様に政権を放り出されてしまえば、この国は大混乱になるな。まず、この京にいる幕臣たちは皆好き勝手に後継を選んで暴走するだろうし、他の後継者候補を抱える三好も黙っていないだろう。我らはその渦中に巻き込まれることになる……」
そうなれば、近江に戻ることも容易ではないと半兵衛は危惧した。どうやら、策に溺れてしまったようだ。
「だけど、今更そんなこと言って中止にできるのか?公方様の方も激怒されていて、やる気だと聞いたぞ?」
「それも誤算だった。まさか、御台様が夫婦げんかの延長で挑発なさるとはな。しかも、わざと負けるように寧々様に言おうものなら、今度は御台様が離縁されるそうだ。はあ、困ったものだ……」
半兵衛はそれだけ言い残して、再び思考の海に飛び込んだように黙り込んでしまった。困るのならば、そもそも御台所様を唆さなくても良かったんじゃないかと言いたくもなったが、これも今更だ。今の俺にできることは、鍛錬に付き合うこととこの心の友の愚痴を聞いてやることくらいなのだから。




