第948.5話 お福は、見てはならない裏事情を目撃する
慶長3年(1598年)7月中旬 近江国小谷城 お福
柚希様を寝かしつけて、今日のお務めを終えたわたしは、少し縁側に出て月を眺めている。何を考えているのかと言えば……今日、徳川のご隠居様、家康公に口説かれた事だ。
『お福……儂はお愛を亡くしてからというもの、心がぽっかり空いたままでのう。できたら、そなたに埋めて欲しいのじゃ』
大政所様より乳母のお役目を授かったばかりだからと、もちろんお断りしたのだが……その一方でどうしても考えてしまう。もしかして、勿体ない事をしてしまったのではないかと。
何しろ、家康公は播磨49万石のご当主である秀忠公の御父君だ。もし、子ができたならば、忠吉公のように小禄とはいえ領地を分与されて、大名にお取立ていただけるかもしれない。そう考えると、邪な心が……どうしても芽生えてくる。
「ダメよ、お福。そんな事をすれば、確実に大政所様の逆鱗に触れる事になるわ。これでよかった……よかったのよ」
傍から見たら危ない人に見えるかもしれないが、わたしは月を見ながらお祓いするかのようにそう呟いた。そうしておかなければ、明日もう一度口説かれたら、今度こそ頷いてしまいかねないと思って。しかし、丁度その時だった。
「え……あ、あれは……」
怪しい人影が大政所様のお部屋の方から飛び出してきて、そのまま廊下を何処かに向かって走り去っていくのが見えたのは。
「おかしいわね。あの部屋はこの時間、誰も出入りする必要はないというのに……」
何しろ、部屋の主である大政所様は日向に行かれて留守だし、出入りする可能性がある御夫君の内府様、それに希莉様も同行されていてこの小谷にはいない。それゆえに、泥棒あるいは忍びでも入り込んだのかと思い、薙刀を手に取って人影が逃げた方へ向かった。
「ふふふ、これであの女狐がこのくっさい厠で、う○こしている振りをして飲んでいると誰もが思うであろうな……」
だが……その先の厠でわたしは目にしたのは、そう呟きながら下卑た笑いを漏らしながらも、高そうな酒を便器の中に流し込んでは、その周辺に大徳利を並べる家康公のお姿であった。
「え、なんで……」
一体何をしているのか、全くもって理解できずに思わずそう声を漏らしてしまったわたしであったが、続いて聞こえてきた声により恐怖を覚えてしまった。
「これで明朝、厠掃除に来たおばちゃんがこれを見つければ、自然にあの女狐が飲酒の誓いを破ったという疑惑が確定情報のように世間に広まるだろう。そうなれば……ふふふ、半兵衛の『お仕置きだべえ』があの空っぽなお頭に……炸裂して、ふふふ、ははは!!!ザマアミロってんだ!!!!」
ダメだ……。言っている事も意味不明だが、はっきり言ってキモチワルイ。もしかして、わたしが振っちゃったから壊れた!?い、いや、でも……こんな人とは思っていなかったから、断って正解だったともいえるわね……。
「ああ、で、でも、とにかくまずは止めないと……」
とにかく、大政所様を嵌めようとしているのは理解できた。殺し合い寸前と言われるほど仲が悪いとは聞いていたし、このまま放置していたら、この小谷に血の雨が降りかねない。
だけど……そう思って、一歩踏み出そうとしたところに「お待ちを」と声が掛かった。恐る恐る振り返ると、そこに立たれていたのは忠吉公であった。
「後始末は必ず我らがつけるゆえ、ここは見なかった事にして頂けませぬか?」
「で、でも……あれって、大政所様を嵌めようとされていますよね?しかもあのお酒は……」
「ああ、あのお酒は我らが用意した安酒ですよ。ご愛蔵の品に手を出せば、確実に切り刻まれて鍋の中に放り込まれますからね。その辺りはもちろん弁えています」
そして、忠吉公はわたしに事情を説明してくれた。要は溜まりに溜まった不満が爆発して挙句刃傷沙汰に発展して、徳川家諸共吹っ飛ばないようにと、内府様の提案であのような事をさせているとか。
しかも、バレたとしても、最終的にはその内府様が責任を持って、大政所様を宥められるから大丈夫と。
「そういうわけですから、この場は我らに任せて、どうかご安心してお休み下さい」
「わかりました。そういう話でしたら、見なかった事にしますね」
ただ、君子危うきに近寄らず。何となくきな臭さを覚えたわたしは、翌日もう一度声をかけてきた家康公の誘いを心置きなく断る事にしたのだった。
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