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第37話(終) あなたの笑顔がまた見たいから

 黒木が店を出たことの報告ついでに手伝うことはないかと神尾が厨房へと入ろうとしたところで御嶋が顔だけ覗かせた。 

「ん、あいつ帰ったのか」

「ええ、きっと照れ隠しでしょう」

 昔からそういう節があるからなあいつは、と言って彼はふふんと鼻を鳴らした。

「どうして?」

「んーん、なんでも」

 ふむ、と首を傾げて御嶋は時計の方を見やった。針は丁度十五時を刺している。

「もう上がる時間だな」

「そうですね」

 神尾は席に腰を下ろしたまま、動こうとはしなかった。

「もう少しだけ、いてもいいですか?」

 そう言うと、御嶋は黙って頷いた。黙ってから、恥ずかしそうに下を向いて言葉を紡いだ。

「別に、ずっといたって構わない」

 神尾はポッと顔を赤くした。胸の内側や脳の奥が熱を出している感覚がする。

「ああいや、その…今まで助かったからな色々」

「えっと、ありがとうございます。嬉しいです」

 取りなすように御嶋は話を変えた。

「さっきのだが…」

「さっきの?」

「バーを開くってやつだ。あれだってお前のおかげだ」

「私なんにもしてないですよ?」

 いいや、と御嶋は首を振った。

「お前が店番してくれるおかげで勉強の時間が出来たし、それに初めて酒を振る舞った相手はお前なんだ。お前が沢山喜んでくれたからやってみようって思えた」

「大げさだと思いますけど…まぁそれなら良かったですよ」

 ああ、と御嶋は溜め息を吐くように返事をした。

「今まであまり出来なかったが、人を頼るってのは結構良いことみたいだ」

「それ、私も苦手なんです。どうしても申し訳なくって」神尾は言ってからハッとした。「じゃあ、私が居なくなった後誰か雇ったりとかするんです?」

「どうだろうなぁ」

 御嶋が快活に笑う。

「求人も出してない店に殴り込むような素っ頓狂なやつがいればだな」

「そんな人、なかなかいないでしょうね」

「いないだろうが忙しくなる予定だしな。なんとかしなきゃならん」

 神尾は俯いた。

「あのねボス」

 俯いた顔を、瞳を、真っ直ぐに御嶋の方へと持ち上げた。

「いつか戻ってきます、親孝行が済んだときか、母が完治したときか分からないけど」

 ククク、と御嶋は笑った。いつも声を抑えるためにそんな風に小さく笑う彼だったが、普段のそれよりずっと愉快そうだった

「それを待っていた。客としてでもいいからたまには戻ってこい。俺も続けられるだけは続けるから」

「ずっと続けて下さい。ご両親のためにも」

「俺の、両親に?」

「はい、あのお金は…」

 彼の表情は不思議そうで怪訝そうだったが気にせず続けた。

「きっとご両親は手切れ金のつもりなんてないですよ」

「どうして」

「根拠はないですけど…」

「ふむ。まぁ人生の大半は受け取り方次第というもんな」

「そうなんですか?」

「適当に言っただけだ。でもお前に言われたら本当にそうだと思えるよ」

「きっとそうです。その、気を悪くしたらごめんなさい」

「いいや、大丈夫だ…お前はやはり人を元気づけることが上手いな」

 意外な言葉だった。自分にそんな能力が備わっていると思われていたなんて。全く自覚は無かったし偶然そう見えただけに過ぎないと神尾は思った。

「なんだ気づいていなかったのか。お前と話すと誰もが明るい顔を見せるって」

 御嶋は肩を竦めた。

「だから皆お前には笑顔でいて欲しいんだ。しょげた顔をされるとまるで世界が終わるんじゃんないかって思えてくる」

 大げさかもしれないがな、と彼は笑った。

「…さて、最後に一杯飲んでくか?」

 神尾はただ、笑って頷いた。そして自然と実家に住んでいた頃の母を思い出した。私を珠のように愛でていた母も同じ事を思っていたのかもしれないと、そう思うだけで涙が溢れそうだった。


 ランチタイムを少し過ぎた頃、カフェ『Rコール』は今日も閑散としていました。そんな空間が今は好都合で隠れ家的な暖かさがあって、故郷のように愛おしく思えます。

「私、もう行きますね」

 ですが、もう離れなければいけない時が来たのです。

「ああ、元気でな」

 寂しくはありません、ただ発すべき言葉があるようで、大事なときなのに何も浮かんでこなくて、それがもどかしくありました。

「あ、あのねボス。なんか言おうと思ったんですが忘れちゃって」

「次会った時でいいだろ」

「乙女心が分からないのですか」

「乙女として話していたのか」

「もう、ホントに行っちゃいますからね!」

 ボスは顔を綻ばせました。相変わらず私と話すときの彼は慈しむような瞳で私の全てを包むように向けてくるのです。私はそれが大好きでした。

「ああ、またな」

「…はい、また」

 私は深く、限界まで深く頭を下げてお店を出ました。

 

 昼下がりの少しだけ冷たい春風が私を押すように未来へと流れていきました。七和町で感じた全てが胸にこみ上げ、血液のように全身へ巡っていくようです。この満ち足りていく感覚がずっと続いて、私に力を与え続けてくれたらどんなにいいか。

 一歩ずつ踏みしめるように帰路を辿りました。その足取りは軽く、トップスピードで門出を迎えられるような気がしました。私はずっと、誰かに力を与えられた事が心の底から嬉しかったのです。地元に戻るまでの間、このエネルギーを持て余してしまわないか心配になったほどでした。

 田んぼを越えて、私の住むアパートが居を構える住宅街に差し掛かったそんな折、一匹の猫がどっしりと向こうからやってきました。その堂々たる足取りたるや、野良猫さんに違いないと思った矢先、気づきました。

「ユウヒ」

 例の公園以外の場所で彼に会うのは初めてのことかもしれません、そんな彼が怒ったような声で私を呼ぶものですから、私は彼の前でしゃがんでその小さい顎の下を撫でました。

「私がもうすぐ遠くへ行くって、気づいたのかい?」

 彼は喉を鳴らして答えました。手のひらに伝わる可愛らしい振動は命の尊さそのものだと言っても過言ではありません。暖かくて柔らかくて、とにかく愛おしいのです。

「お前と離れるのが一番寂しいかもしれないよ…もうおやつもあげられないから公園に行かなくたって良いけど、もし私がまた帰ってきたらあのベンチで待っててね」

 別れは悲しいものですが、どうしても向き合わなくてはならない時があります。ですがまたここで暮らすことがあったらその時は彼と一緒に生きてみたいと、そう思いました。

 それじゃあ、と言って私が立ち上がると、彼が先に踵を返しました。

「じゃあね、ユウヒ」

 彼は尻尾を振って応えてからゆっくりと消えていき、私はその後ろ姿が見えなくなるまで瞬きもせずに見送りました。

 

 平日の昼間と言うこともあって新幹線の自由席にはゆとりがあり、私は今、人目を気にせずに久々の執筆に勤しんでいます。

 私はこれから会う母と、しばらくは会えなくなる七和町の人たちのことを順番に頭に浮かべながらも、澄みきった川を眺めているかのように清々しい気持ちで今を迎えています。ボスが言うように私に人を笑顔にする力があるのなら、不安や恐れを抱く必要はないと思ったのです。

 時には『Rコール』が恋しくなる事だってあるかもしれませんが、今はとにかく母に会って、感謝を伝えて、そしていっぱいの珈琲を振る舞ってあげたいです。その度に私は、珈琲で繋がった様々な人たちのことを身近に感じるのでしょう。

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