愛する婚約者に頬を叩かれました
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頬を一発打たれた。今まで一回もそういう事をされずに大事に育てられてきたエルザにとってはあまりにも衝撃的で、それは彼女の骨の髄まで染み込んでいた淑女教育を忘れさせる程の物だった。
◇◇◇
エルザには愛する婚約者がいる。お互いの家の利益の為に結ばれた婚約であったが、エルザは婚約者であるスチュワートを愛している。スチュワートが愛を囁く事はなかったが、エルザは彼が恥ずかしがっているだけだと思っていた。
だがしかし、学園に入学して3年目の秋の頃。編入してきた一人の女生徒によって均衡を保っていた二人の関係は狂い出した。スチュワートは人の目を憚る事もせずその女生徒と愛を深めていった。二人が深い仲になったと噂されるまでにかかった期間はたったの2ヶ月。エルザはもう5年も婚約者をやっているのに、未だ手を繋いだ事もない。
だから、男爵令嬢だというその少女にエルザは考えつく限りの悪行をしてしまった。
取り巻きに悪口も言わせたし、エルザ自身、男爵令嬢をなじり馬鹿にして嗤った。男爵令嬢は、黙ってエルザの話を聞いていた。
そして、エルザの行動に怒ったスチュワートによって、冒頭の通りエルザは頬を打たれた。人の往来の多い学園の廊下で、エルザはヘタリと座り込む。そして、周りの生徒が心配気な視線を寄越し、エルザを打ち鼻息が荒いスチュワートの後ろに震える男爵令嬢がいる中でエルザが取った行動は――、
「う、うわあぁぁーーーん。痛いよおぉ!」
泣き叫ぶ、であった。そう、公爵令嬢として両親に、周りの人に大事に大事に目に入れても痛くないと言われる程に愛され愛され、自分が愛されない訳ないと疑う事のない程愛され過ぎたエルザは、淑女教育という毛皮をはいでしまえば精神年齢4歳位の情緒しかない少女だった。
そんな少女を見て、最初に動いたのは取り巻きの令嬢達だった。
「エルザ様を殴るだなんて万死に値するわ! 骨の一つも残さない!」
「腕もぐわよ!?」
「貴方なんてエルザ様の庇護下になければ早々に消していたのに! 野放しにしたのが間違いだったわ!」
そう、エルザは人望があった。それは公爵令嬢という地位関係なく築き上げた絆が。令嬢達にギリギリアウトな発言をさせるほど、エルザは好かれていた。
令嬢達はみな、感情を出すことのない『人形』になるように教育を受けてきた。そんな彼女達が12歳の頃お茶会で出会ったエルザの無垢な幼子のような心はあまりにも鮮烈だった。
行儀が悪い訳では無いのだが、瞳を輝かせてお菓子を「美味しいですわぁ」と食べる姿は、令嬢達の内に母性のような物を目覚めさせる事となる。
そんな風に愛されているエルザを殴ったら、どうなるかなんてお察しだろう。ちなみにスチュワートは伯爵位。彼よりも上の爵位を持つ令嬢たちにとってエルザという防波堤を失くしたスチュワートなど恐るるに足らず!
エルザの頬に濡れたハンカチを当てたり、棒付きキャンディーを渡したり、スチュワートの名が入った藁人形を編んだりする令嬢を見て、ようやくスチュワートは焦りを覚えた。
そして思い出した。自分はただの一介の伯爵子息なのだと。エルザを敵に回すのは、あまりにも愚策なのだと。
震えたスチュワートは、助けを乞うように後ろにいた男爵令嬢の手を取ろうとする。だがそこで、さっきから震えていた男爵令嬢が顔を上げ声を発した。
「お嬢に何してんだっ、このクソ野郎がぁ!」
それは驚くほど男の声だった。スチュワートが状況を呑み込めない内に、男爵令嬢だった何かが打ち込んだ拳がスチュワートの顎にクリーンヒットしスチュワートは飛んでいく。
スチュワートがそこで気絶しカットアウトした事で、いつもなら賑やかな廊下に静寂が訪れた。
そんな静寂を破ったのは、他でもないエルザだった。ほわぁっと嬉しそうな顔をし、男爵令嬢だった何かに声をかける。
「エディ? エディなのよね!」
「はい、お嬢のエディです」
そう、この男はエルザのいる公爵家の執事である。昔平民として街の路地裏でうずくまっていたエディウスに声をかけたのがエルザであった。そこからエディウスはエルザに深い感謝をし、彼女の下で執事として働くことになる。
「でも、なんでエディが女の子になっているの?」
令嬢達に守られながらエルザは首を傾げる。爽やかにかつらを取りながらエディウスは話し始めた。
「あのスチュワートという男、お嬢という至高の存在の婚約者の座についておきながらお嬢の悪口を言いふらしていたんです!」
「まあ」
淑女教育の毛皮が戻ってきたエルザは棒付きキャンディーを舐めながら冷静に相槌をうつ。淑女教育の毛皮を被ったエルザは凄いのだ。
「ですからあいつの有責で婚約破棄する為に、公爵家の人間総出で一芝居する事にしたのです。あいつも不貞をしたとなれば言い逃れ出来ませんから」
だからお父様やお母様に男爵令嬢の事を訴えても、甘いお菓子や宝石をくれるばかりで何もしてもらえなかったのか、と変な所でエルザは腑に落ちた。
そこで、悔しそうにエディウスは拳で壁を叩く。
「でもあいつっ、お嬢を殴るだなんて!」
「――ねぇエディ。スチュワートは私の事好きじゃなかったのかしら」
割る様にしてエルザが口を開くと、皆が気まずそうな顔をした。それで全て分かったのか、エルザは笑う。
「それならそうと言ってくだされば良かったのにぃ!」
「……え、お嬢はそれで良いのですか? 好きだったのでしょう?」
「何を言ってるの? 私はスチュワートが私の事を好きだと思っていたから好きだったの。私の事が嫌いな人は好きじゃないわ」
そこで顔を赤くしたエディウスはエルザに躊躇いながらも聞く。
「俺、お嬢の事拾って頂いた時から好きです! 俺のお嫁さんになってください!」
エルザの顔がポッと赤らんだ。愛され過ぎたエルザは人からの好意を拒まない。端的に言うと惚れっぽい。そんなエルザはギリギリとハンカチを噛む取りまき令嬢達の前でエディウスの手を取った。
さっきから展開についていけない周りの生徒、先生も手を叩いて祝福した。皆教育を受けたから普段は物静かなだけで、本当はノリが良いのである。口笛を吹く生徒もいた。何処からか花びらを持ってきて散らす生徒もいた。婚姻届持ってる先生もいた。
◇◇◇
それから、スチュワートの家は有責で婚約破棄され、貴族社会からも姿を消した。エルザの家の権力を失った今、新しいビジネスが駄目になり平民になったらしい。裏でエルザの両親が手をまわしているのは言うまでもない。
そして、エルザと結婚する為エディウスは養子に取られる事となった。令嬢達の間で誰がエルザと姉妹になるかで大乱闘が勃発していたが、勝者は藁人形を使いスチュワートを三日三晩下痢に苛ます事に成功した令嬢だった。力で脅したとも言う。
エルザとエディウスが結婚するまで、そう遠くはないだろう。
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