始まりの吸血鬼2
【無意識の世界と都市伝説の本】
手紙の催促が母さんからメールできて、先日送ったことを返信で伝える。朝からメールで起こされた私はあくびをして2度寝を始める。始めようとしたが、今日は図書館へ行く予定があったと思い出して頑張って起きることにする。
「姉さん。今日は珍しく早めですね。ごはん食べますか?」
支度を済ませて居間にくると、弥生がソファでくつろいでいた。その手には本、テーブルにも数冊が重ねて置いてある。本の表紙には怖い話と赤い文字で書いてあった。ほかの本も都市伝説や、UMAがどうたらというタイトルだ。以前からそういった話題に興味深々で、ホラー映画なんかをよく見ていた。中学2年生をこじらせてからは、頻繁にその手の話題を読んでいる印象がある。
どうでもいいのだが、私が午前中に起きてくると、たとえ11時だろうと「珍しく早い」と言うのは皮肉なのだろうか?
「弥生は、吸血鬼っていると思う?」
「また、吸血鬼の話ですか。この前から頻繁に話題に出てきますね。興味があるのでしたら語りましょうか!?」
自分の土俵に私が上がったものだから、ここぞとばかりに目を輝かせている。弥生は好きなことを語りだしたら止まらないが、吸血鬼の話題に至っては聞いてみたいと思ってしまう。仕方ないだろう。私はあんな体験をしているのだから。
あの銀髪が、紅い瞳が、落ち着いた声が、笑顔が、キスが、今も頭から離れないのだ。
「恋する乙女かっ!」
自分の思考に苛立ってうっかり声に出してしまう。弥生はクエスチョンマークを浮かべて首を傾げているが、気にしないで、と伝える。自分らしからぬ自分にこんなにも腹が立つのはなぜか、わからないがとにかく気を紛らわせたかった。
「ごはんは大丈夫だから、これから図書館に行ってくるね。何か借りてくる?」
「ちゃんと食べないとだめですよ。できればこれの続きが読みたいので、あれば借りてきてください。」
ごはんを食べないのはいつものことなので、軽い注意を受けるだけだった。弥生が示した本は「素人でもわかるUFOの真実・上」というタイトルだった。書いた人はきっと玄人なんだろう。
「いってきます」
今日も暑さがまとわりつく。日本の暑さは湿気が高くてじんわりと全身が包まれる感じで気が滅入ってしまう。イングランドは気温はそこまで高くないのだ。その代わり日差しが日本よりも強い。私はイングランドの親友からプレゼントされたお気に入りのキャップをかぶって日差し対策をして、駅近くの図書館へと向かう。
この前と同じように、階段を上がり公園を横切って近道をする。この道の木陰のベンチに、レイカがいた、なんて考えて視線を向けると、そこには知り合いが暑さを避けて休憩していた。
「こんにちは、葉月。今日も暑いね」
「やっほー、花月。そうだね、もうすっごく暑いよ~」
私から声をかけると、彼女は太陽のように明るい笑顔で応えてくれた。彼女は加賀美葉月。私の通う学校のクラスメイトで、ハヅキとカヅキで名前が似ていることから、入学当初から仲良くなった友達だ。
茶色に染めた髪は緩くカーブかかかっており、ハーフアップでかわいらしくまとまっている。こげ茶混じりの瞳、ぱっちりとした目。幼さが残っているがナチュラルメイクでばっちりと決めて、完成された可愛さだ。私よりも身長は低いが、私よりも足が長く細い。素晴らしいプロポーションで、うらやましいとも思うが、嫉妬心よりも彼女の友人でいられて誇らしく思う。
「どうしたの、もしかしてデートぉ?」
「これから図書館に行くの。なんでデートだと?」
「だって、なんか夏休みが始まる前よりも花月かわいいんだもん。恋でもしたのかな~って!」
葉月は冗談のつもりなのだろうけど、今の私の心境としてはあまり触れられたくない話題だった。ちょっと不思議な体験をして心がふわふわしているわけで、決してこれは恋心ではない。
「まったくそんなことはないよ。葉月のほうがおしゃれですごくかわいいよ。そっちこそデート?」
「カワイイ? ありがとう!! でも残念ながら彼氏はいないんだよ~。お姉ちゃんにパシられてるだけだけど、見た目は常に良くしておきたいなって!!」
パアッと明るく笑ったり、しょぼんと落ち込んでみたり、再度ドヤッと笑顔になったりと、表情豊かな彼女を見ていると楽しくなってくる。クラスどころか学年でも男女問わず人気があり、先生たちからも信頼されているほど優等生で、見た目にも気を使っている彼女に恋人ができないのは、本当は作る気がないんだと勝手に思っている。結構女子人気の高い男子生徒からも告白されていたりしたと聞いたことがあるが、誰も彼も、彼女の友達以上にはなれないのだ。どこか線を引いているようにも聞こえるが、葉月はみんなに対して平等なのだ。
「葉月はいつもかわいいよ」
「えへへ、ありがとぉ~。花月はいっぱい褒めてくれるし、カワイイし、好き~!!」
私の台詞はいつものお約束のようなもので、葉月が頑張っているときなどはこうして褒めてあげるのだ。それに応える葉月は私にギュッと抱き着いて好き好き言ってくれる。ある意味では私が一番、葉月の友達以上に近い位置にいるかもしれない。
「ううっ暑い~」
「そうだね、抱き着かれると余計に暑いよ」
しかし今日はギュッとするには向いていない気温だった。葉月はごめんと言って私から名残惜しそうに離れて、またベンチに座り直す。横に座れと言うように、隣の空いているところをポンポンと叩いた。
「こんなに暑いと海とか行きたいよね~」
「いいね、海。でも葉月と一緒に水着を着るのは少し嫌かな」
「えっなんで!?」と慌てている葉月を横目に、彼女と自分の胸を交互に数度見た。この格差社会は決して努力で埋めることはできない。私の視線を察したのか、葉月はハッとして、私の肩に手を置いた。
「花月、大きさじゃないよぉ」
「うるさいな、持っている人にはわからないんだ。」
なお、お母さんも大きくないため、遺伝子的にも絶望なのである。
「私は葉月くらいが良いと思うんだけどな~。かわいいし、水着とか下着のデザイン豊富だし、大きいと肩凝るし、階段降りるとき危ないし」
「階段降りるとき足元が見えないの?」
葉月がフォローしてくれるためにデメリットも提示してくれたが、想定外のものについ驚いて聞き返してしまう。もちろん、私にはそんな経験はない。あはは、と笑ってごまかされるが、日常的にそんな危険にさらされるなら大きすぎるのも良くないのかもしれないと思う。
「でも、どこか遊びに行きたいのは賛成だね。プールなら浮き輪で浮いているだけでもいい」
「いや、泳ごうよ~。それとももしかして、花月は泳げないの?」
「そんなことないよ。スクールでも4年目から水泳授業あったもの」
イングランドの学校は4年目の途中で引っ越したので、学校のプールには数回しか入れなかった。
「私も小学校のとき授業で水泳あったよ!楽しかったな~」
今、私たちが通っている学校にはプールがなく、水泳の授業もない。私立の学校なので、それが理由とは言わないが、珍しいほうではないだろうか。
「おおっと、そろそろ行かないとお姉ちゃんに遅いって怒られちゃう」
「そうだね、いい感じに涼めたし」
涼めたと言っても、私は家を出たばかりだけど。葉月はお姉さんのお使いのために木陰から出る覚悟ができたようだった。
「それじゃあ、熱中症にならないように気を付けてね~」
「お互いに、ね」
私は駅の方へ、葉月は階段を下りて商店街の方へ向かった。
暑さに汗をかきながら、やっと図書館に着く。ここの図書館はあまり大きくはない。そして揃っている図書が少し変わっている。弥生が読んでいるようなオカルトな本が以外と豊富だったり、逆によく見るような話題の図書が置いていなかったりする。参考書や専門書なんかはきちんと置いているので、学生が勉強する分には問題はないが、利用する人は少なかった。そうでなくとも隣の駅まで行けば大きい図書館があり、図書も設備も揃っているので、みんなそちらに行くだろう。私もそっちをよく利用するが、今日は面倒くさいのでこちらにきた。
図書館に入館すると、案の定人はほとんどいない。学生が2人程度、もしかしたら棚に隠れて見えないだけかもしれないけど、相変わらず不人気だった。
図書館の入り口すぐ左手にPC室があり、その少し先には盗難防止のセンサーがある。そこを抜けると受付が左にあり、正面と右奥に向かって本棚が並んでいる。右斜め前にテーブルが並んでおり、そのさらに奥にも本棚が並んでいる。あまり大きくないとは言ったが、参考書や専門書が並んでいるのだから、それなりのスペースはあった。
まずは一番の目的、建築関係の本を探す。探すと言っても、正直な話、今まで勉強していたわけではないので、名建築集みたいなのを眺めるくらいしかできない。しかしお父さんが建築家なだけに、興味はかなりあった。なので、たまにこうして図書館に来て借りてみたり、ネットで検索してみたりする。高校を卒業したら、建築が学べる大学に行くのもいいかもしれない。
読んだことのない建築集を2冊ほど手に取る。1冊目の載っている建築家一覧にお父さんの名前があり、少しだけ嬉しくなってパラパラとページをめくった。日本でも活動していたから、そのときのものが載っているようだ。
上機嫌で次はオカルト系が並ぶ本棚にきた。なぜここの図書館は専門書よりもオカルト・ホラー系の図書がこんなにも豊富なのだろうか。弥生から頼まれた本を探す。タイトルは玄人?UFOのなんちゃらだったと思う。この数ある中からそれを見つけられるか不安だが、頼まれたからにはきちんと探さないといけない。
「全然見つからないな」
15分ほど探してみたが、本当に見つからない。棚の端から1冊ずつタイトルを流し見で確認していたが、まだ棚は半分ほどしか確認できていなかった。本当に、なぜこんなにも豊富なのか。
「何を探しているんだい?」
不意に声をかけられて、びくっと肩が跳ねる。気づけばすぐ真後ろに人が立っていた。美人なお姉さんだ。なぜか白衣を着ている。長い黒髪のところどころに赤と緑のメッシュが細く入っている。笑顔というか、微笑んでいる感じで、どこか不思議な雰囲気を感じる。
この人はいつから私の後ろにいたのだろうか。お姉さんはけっこうぴったり私の背後に立っており、ここまで近くにいれば声をかけられる前に気づくと思うのだけど、本当に急に現れた。
「えっと、妹に頼まれた本を探しているんですが」
図書館で探しているものを聞かれるということは、この人は図書館の職員さんなのだろう。それならタイトルを言えば探してくれるのを手伝ってくれるかもしれない。白衣なのも、もしかしたら図書館の職員さんなら実は当たり前の服装だったりするのだろうか。
「タイトルは――――」
「これなんかどうだい。君に必要になるかもね」
私がうろ覚えのタイトルを言おうとすると、そんなの聞いていないと、お姉さんはおススメの本を渡してくる。これでもう、この人が別に職員さんではないことを察して、恰好も相まってただの変な人なんだと気づく。
「あ、いえ、大丈夫です」
私はお姉さんに押し付けられている本に目もくれず、本棚に視線を戻す。しかしお姉さんはパッと私と本棚の狭い間に入り込んで、私の顔の前に本を掲げた。
「あれ、この本」
見覚えのある本の表紙。そのタイトルは「素人でもわかるUFOの真実・中」だった。そう、弥生が探している本だ。
「それです、探している本。すごいですね、なぜ私が探しているものがわかったんですか?」
「君に必要だと思ったからさ。ほかには……これはどうだろうか」
UFO本を受け取って、疑問をそのまま口にする。お姉さんの答えは答えになっていないが、どこからともなくお姉さんが取り出した本に私は目を惹かれる。
「建築の本ですか。でも、もうこの2冊を借りる予定なのでそちらは大丈夫です」
「いいや、これはそれとは違うよ。これは設計を漫画で学べるもので、入門としては一番適しているんだ。興味があるんじゃないかい?」
確かに、興味がある。漠然と憧れていただけで、建築集を眺めていた私に、最高の答えを示してくれていた気がした。内容を見てみないとわからないが、UFO本を見つけてくれたこの人のおススメなら読んでみたいかもしれない。
「それでは、そちらもお借りしたいです」
私はその本も受け取り、4冊を抱える。先ほどは変な人などと考えてしまったが、ちゃんと職員さんで、お客さんのほしいものを察せるスーパー職員さんなのだろう。白衣を着ているのもそれなら納得できる。いや、白衣に関してはやっぱり納得できるわけないが、そこは考えても仕方ない。
「ありがとうございます。あれ?」
お礼を言おうとすると、職員さんはいなくなっていた。別に目を離したわけではない。気づけばいなくなっていた。
不思議な人だ。
本を受付で借りて、持ってきていたトートバッグに入れる。センサーを通って図書館を出ると、そこで先ほどのお姉さんが私の肩を叩いた。またもびくっと肩が跳ねる。
「さ、先ほどはありがとうございました」
びっくりしたが、さっきはお礼を言えなかったので改めて言う。相変わらずお姉さんは微笑んで、不思議な雰囲気だった。
「これを君にあげよう。必要になる」
お姉さんはまたも本を渡してくれる。あげると言われ困惑するが、その表紙は見たことがあるものだった。
「この本、あれと一緒?」
先日、レイカさんが持っていた本と同じ表紙をしていた。目が惹かれる刺繍がされた古びた本。
「少し歩きながら、話をしようか」
お姉さんは、図書館を出て、私の帰る方向へ歩き出す。すでにわかっている。ここまでくると、図書館の職員さんではないし、ただの不思議な人というわけでもない。限りなく怪しい人だが、しかしなんとなく、この人の話を聞かなければいけないと思い、私は彼女について外に出た。
普段は交通量が多いはずなのに、今は車の一台もない。歩道も人は誰もおらず、まるで私とお姉さんだけしか存在しない別世界に迷い込んだようだった。纏わりつくはずの暑さも感じず、もちろん寒さも感じない。風は吹かない。明るいが、太陽が照っているような感覚はない。
「君はイディアというものを知っているかい?」
「すみません、聞いたことないですね」
お姉さんの語り出しは聞いたことのない単語で、素直にわからないことを回答する。
「例えば君が今日の晩御飯は妹の作ったおいしいカレーが食べたいと考えたとする。それを妹に言わなければ、君がカレーを食べたいことは伝わらないだろう」
「なぜ私に妹がいることを知っているのですか。それにカレーもちょうど食べたいと思っていたのですが」
的確な例えに驚くというよりも、もう気持ち悪さまで覚える。エスパーかなにかなのだろうか。
「そう、本来なら君の頭の中だけにあるはずの情報が、なぜだか僕にもわかってしまうんだ。それはなぜか。ちなみに僕はエスパーでもなんでもないよ」
私の疑問には答えず、さらに質問で返してきた。それはこの人が私のストーカーで妹の存在をしていた。なんて考えてみたが、カレーが食べたいなんていうのは私の気分なので、ストーカーされていたとしてもわからないものだ。
「エスパーじゃないなら超能力者ですか?」
「それは同じ意味だよ。君は馬鹿なのかい?」
馬鹿にされて少しむっときたが、適当に答えた私も私なので文句は言わず、降参することにした。
「わかりません」
「人の思考というのは無意識下で他人と繋がっているんだよ」
私たちは公園までくる。いつもなら夏休み中の子供たちが遊んでいるはずだが、やっぱり誰もいなかった。鳥の姿も、犬や猫も見当たらない。
「無意識下というのは?」
「そのままの意味だよ。普段息をしたり、歩くために足を前に出すときに、今から息をするぞ、歩くぞ、なんて意識的にしないだろう?無意識下で自然としてるんだ。そういう無意識の思考が繋がってるんだよ」
確かに無意識でなにかをするというのはよくわかるが、無意識で人と繋がるというのがどういうものなのか理解できない。
「例えば、誰もが美しいと思う景色があるとする。それが海なのか空なのかはいいとして、君が見てもきっと感動するだろうね」
そう言われてイメージしたのは、昔テレビで見た海が見える丘の上の花畑だ。鮮明に思い出せる程度には印象に残る美しさがあった。
「では、その美しいという感情はどこから来ると思う?」
「え?どこからって言われましても……」
「その景色が美しいと誰が決めたのか、なぜ万人が見て美しいと感じるのか。そういう人類の普遍的な共通点はどこからくるのか、君は知っているかい?」
「普遍的な共通点?」
「他に例を挙げるとすれば、音楽かな。音階の組み合わせや短調のメロディで人は暗い音楽だと感じる。万人が暗い曲だと感じる。そういう示し合わせたわけでもないのに他人と共通することを普遍的な共通点と言い、その共通点が存在するのは、人々が無意識を共有しているからなのさ」
そこまで説明されてやっと、なんとく無意識を理解できた。確かに美しい景色を見て感動したり、暗い音楽に不安になる感覚は、誰もが共通する感覚だ。
「つまりは無意識で私とあなたが繋がっているから、私に妹がいることも、私がカレーを食べたいこともわかると言うのですか」
「そういうことさ」と言って、ベンチに座る。私も自然と隣に座り、話を続ける。
「イディアというのは、その無意識での繋がりの先にある世界のことを言うんだ。精神世界とか、超越界とも呼ぶかな」
無意識で他人と繋がっている。その繋がりの先にはイディアという世界がある?
「よくわかりませんが、いま流行りの異世界みたいな話ですか?」
「君が言っている異世界というのは少し違う。どちらかというと、天国とか地獄とか、身近だけど触れることができない概念みたいなものさ」
天国や地獄みたいな概念。宗教的な話だったのだろうか、もしかして変な勧誘かな?と思ったが、自分の身に起きている不思議体験を信じざる得なかった。
話疲れたのか、ふうっといったん息をつく。お姉さんはどこから出したのか、コーヒーカップに口をつけて湯気が立つコーヒーを口に含んだ。水筒などを持っている風には見えなかった。
「なにか質問はあるかい?」と会話再会の合図をもらったので、お言葉に甘えて質問させてもらう。
「それで、そのイディアがなんでしょうか」
「その本の名前は【イディアの書】と言うんだ」
私は先日のレイカのように、ベンチに座り、膝の上に【イディアの書】を載せている。
「君のイディアの書には君の運命が書かれている」
「私の運命って、未来予知的なこと?」
私の言葉にこの人は首を横に振る。その動作に長い髪が揺れてふわっと甘い匂いが鼻腔をくすぐる。
「具体的なことは書いてないさ。未来がすべて書かれていたら人生面白くないだろう?君の運命とは、君の物語のことさ」
無意識の繋がりの話から、今度は物語。すでに今の状況が物語的で、むしろ楽しくなってきた。
「人生は物語と言いますが、そういうことですか?」
「そういった感じかな。この世界は多くの物語がうまく展開することによってできている。だけどすべての人に役が与えられるわけではない」
「その人の人生の主人公は、その人だとよく言うけど?」
「その人の人生はそうかもしれないが、世界にとってそれは些細なことでしかない。世界が廻る上で重要な物語があって、その物語の役が与えられた人のもとにイディアの書が渡されるんだ」
それはまた、私では役不足になりそうなものを渡されてしまった。
「先日までの君は名前も与えられないモブキャラですらなかった。でも主人公とイディアで繋がったから、君は物語の登場人物になったんだよ」
主人公とイディアを繋ぐ。私は無意識に自分の腕を見る。本当にただの夢だったのではないかとも思ったが、もしもその繋がりがあるのなら、私はもう一度レイカに会えるということだろうか。
「さて、君の役はなんだろうね。主人公のライバルかな、友達かな、もしかしたら恋人なんてこともあるかもしれないね。はたまた――――」
「――――死体役、なんてこともあるから気をつけて」
「え?」
イディアの書からお姉さんへ視線を向けるが、そこにはすでに誰もいなかった。いつの間にか夕方になっていて、子供たちが手を振って家路につく。車の喧騒も遠くで聞こえ、湿った熱気が久しぶりに私の体を覆った。
「ライバルか、友達か、恋人か、はたまた死体か」
現実味のない話。また、ここで白昼夢を見ていたのかもしれない。しかし手にはイディアの書がある。
私は深呼吸をして、覚悟を決める。ゆっくりとその表紙に手を触れ、ゆっくりと開いた。
そこにはなにも書かれていなかった。
「あれ?」
さらにページをめくる。次も白紙。次も、その次も、どんどんページをめくるがなにも書かれていなかった。
「ええ……。もしかして冗談を真に受けてしまったのかな」
いたずらか、もしくはほんとに何かしらの勧誘だったのだろうか。何やら不思議な体験をした気もするがそれもトリックがあったのかもしれない。
ため息をついて本を閉じる。別にこれを買わされたわけでもない。上質な日記帳を貰ったと考えよう。
私はトートバッグにその本を入れ、改めて家路についた。
「ただいま」
「姉さん、お帰りなさい。遅かったですね」
キッチンで夕飯の準備をしている弥生が応えてくれる。驚くことにカレーを作っているのが匂いでわかった。偶然だとは思うがびっくりしてしまう。
「お願いされてた本借りてきたよ」
トートバッグから本をすべてテーブルの上に置く。建築の本は弥生も一緒に読んでいるので、イディアの書もあったが気にせずにすべて取り出した。
「ありがとうございます、姉さん!」
エプロンを外してテーブルに近付いてくる弥生は、本が楽しみだったようで目が輝いていた。
私は弥生のリアクションに癒されつつ、汗をかいたのでお風呂に入ってくることにした。
またも不思議体験をしたため、もっと早く帰ってくるつもりがもう夕飯の時間になっていた。あんないたずらのために一日の予定が変わってしまったと湯船に浸かりながらため息をつくが、それでもやっぱりただのいたずらだったのだろうかとも考えてしまう。お風呂から上がったらもう一度、本を見てみよう。
「姉さん!」
弥生が大きな声を出して、服のままお風呂場に入ってくる。その表情はひどく怯えていて、なにがあったのか聞く前に私に抱きついてきた。
「や、弥生? どうしたの」
「姉さん、冗談でもあんないたずら止めてください!嫌です、私あんなのは……」
冗談、いたずら。まったく身に覚えがないが、私は弥生を悲しませるようなことをしてしまったのだろうか?
「弥生、落ち着いて。なんのことかわからないよ」
スンスンとすすり泣く弥生を落ち着かせ、濡れてしまった服を着替えさせる。私も体の水気を拭き、服を着て一緒に居間へ向かう。テーブルの上にはイディアの書が開いて置いてあった。
冗談。いたずら。イディアの書。私は嫌な予感を感じながら、その本を手に取った。白紙だったはずのそれには、一文書いてあった。
【楠瀬花月 8月7日16時52分 吸血鬼により殺害される。】
目を疑った。私の名前が書いてあり、明確な時刻と殺されるという記載。その文字は後からペンなどで書き足されたようなものではなく、最初から印刷されたように文字が馴染み、凹みなどもなかった。
「さっきまで、何も書いてなかったのに……」
イディアの書、それは私の運命が書いてある本。具体的なことは書いてないなんて言っていたのに、親切に死亡時間まで細かく書いてあるじゃないか。
「姉さん。私はこういういたずらは嫌いですが、本当にいたずらなんですか?」
弥生は不安げに私の顔を伺っていた。私自身がこれに驚いているから、もしかしてと思ったのかもしれない。私は弥生に心配かけまいと、嘘をつくことにした。
「ごめん。面白いと思って書いたのだけど、確かに冗談でもやっちゃいけなかったね」
これは私のいたずらだと、弥生に説明する。しかし弥生は私の手をとり、目をまっすぐ見てくれる。
「嘘はやめてください。姉さんが嘘をついていることくらいわかるんです。これはいったいなんなのですか?」
弥生は私の嘘にすぐ気づいてしまう。これも無意識で繋がっているからわかってしまうのか。いや、弥生が単純に私のことをよく見てくれているということだ。
私は全部、弥生に話すことにした。
「これは、イディアの書というものらしいの」
「イディアの書って、あの都市伝説のですか?未来のことが書いているという」
オカルトやホラー好きな弥生は、どこかでこの本のことを聞いたことがあるらしい。本をくれたお姉さんは私の物語が書いてあると言っていたが、ややこしくならないように未来が書いてある本ということにしよう。
「それをもらったとき、そういう風に説明されたよ。弥生も知ってるんだね」
「もらったって、誰からですか?」
「えっと、図書館で会った白衣を着た知らない人に」
「知らない人からものをもらわないでください。子供じゃないんですから」
イディアの書がどうのこうの以前に、見知らぬ人からもらったことにツッコミをもらった。
「では、もしも本当に未来が書いてあるなら……」
弥生はまた目に涙を溜めて、私に抱き着く。家族が死ぬと書かれた本。しかも弥生はまだ中学生なのだ。不安でいっばいになってしまうのは当たり前だ。
「大丈夫だよ、弥生。姉さんは死なないよ」
「それは、何を根拠に?」
「だって、吸血鬼に殺されるんだよ? そんなの――――」
「ありえないと思いますか? そうですね。でも、例えば串刺し公と呼ばれたブラド3世は敵国からドラキュラ公とも呼ばれていました。フランスの貴族ジルドレイや、血濡れの伯爵婦人エリザベートも、その諸行から吸血鬼と揶揄されています」
弥生からすらすらと出てくる名前は、正直誰なのか詳しくは知らない。前に弥生がしていた怖い話に出てきたことがあるような気がして、微妙に思い出す。たぶん、昔の犯罪者で、その所業から吸血鬼と呼ばれた人たちだ。
「つまり、吸血鬼と呼ばれるような殺人鬼に殺されるということ?」
弥生は頷いた。吸血鬼というのが比喩表現なら、吸血鬼に殺されるという未来はありえない話ではなくなった。本当に私は殺されてしまうのだろうか。
そんな風に不安にもなるが、弥生がよく見ているようなアニメや漫画では運命を変える!みたいな展開があるように、どうにかして私自身の死を回避できないだろうか。
「イディアの書に書かれていることは絶対にそうなると、都市伝説では語られています。これが本物なら姉さんは本当に死んでしまうのです」
「と、都市伝説では、ね。そもそも本物かもわからないんだから、きっと大丈夫だよ?」
ぎゅうっと、弥生はさらに強く抱きついてくる。
「弥生、大丈夫。姉さんは絶対に死なないから」
弥生を抱き返して、背中をポンポンと撫でてあげる。優しく、優しく弥生を慰めながら決心する。私は死ねない。殺されない。大事な、大事な弥生のために、離れて暮らす両親のために。
そして、レイカ。吸血鬼と言われて最初に思い浮かぶのはあの人だ。
『君は名前も与えられないモブキャラですらなかった。でも主人公とイディアで繋がったから、君は物語の登場人物になったんだよ』
お姉さんが言っていた台詞を思い出して、主人公というのがレイカのことなのかなと思った。私は、レイカに殺される役になったんじゃないだろうか。
これは私の願いだが、レイカを人殺しにさせたくない。炎天下で、今にも気を失いそうなほど弱っていたとき、周りには抵抗力が低い子供だっていたのに、誰も襲わずに日が落ちるのを待っていた。あの人はきっと心優しい人のはずだと、勝手に思い込んだ。
落ち着いた弥生と一緒にご飯を食べる。私はすでに一度入ったのだが、一緒にお風呂に入り、一緒に寝ることになった。トイレ以外、片時も離れてくれない。
「弥生、あの本には時間まで書いてあったからわかってるよね?私が本当に殺されるとしても、あと2日あるからさすがに心配しすぎだよ」
「今からその時刻まで、姉さんから離れませんから」
私の布団のなかで、頬を膨らませる弥生は、甘えん坊でわがままだった幼い頃のままだった。たまには、こんな風に甘えられるのもいいかもしれない。
弥生は、しっかりもので、逆に姉の私を世話してくれるような子だ。真面目で成績もよく、大人に見られたいのか背伸びをしてクールぶっている。しかし昔から甘えん坊で、わがままで、姉の私をよく困らせていた。いつも私の後ろについてきて、鬱陶しく思ったこともあったが、かわいくて仕方なかった。
「ふふっ」
そんな弥生を思い出して笑いが漏れてしまう。弥生からすれば、姉を心配して一緒にいるのに、笑われるのは腑に落ちないだろう。案の定むっとしているが、弥生の頭を撫でてあげると、気持ち良さそうにしてなにも言わなかった。
「ところで、姉さんの部屋は女の子ぽくないですね」
頭を撫でられたのが気恥ずかしかったのか、弥生は急に話を変える。確かに私の部屋は弥生のように人形を飾っていたり、パステルカラーな家具を置いていたり、フォトボードが掛かっていたりはしない。興味がないのと、用意するのが面倒だったから。
「今のままでも特に不便はないし」
「ですが流石に地味すぎませんか?」
暗い色の方が好きなのと、カラフルだと目が疲れてしまうから黒や茶色が多い部屋は、弥生としては納得がいかないようだった。それならと思い、私は弥生に提案する。
「それじゃ、明日一緒に家具を見に行って模様替えしようか?」
今日の気分転換にもなると思った。弥生は買い物に出掛けられるのが嬉しかったようで、二つ返事で行くことになった。
「おやすみ、弥生」
「おやすみなさい、姉さん」
久しぶりに姉妹で寝た次の日。私と弥生、そして葉月はショッピンクモールで並んで歩いている。
「姉妹で仲良しデートだったのに、邪魔してごめんねぇ?」
「ううん、大丈夫だよ。困っているときはお互い様だから」
弥生とショッピングデートに来たのだが、たまたま一人で買い物をしていた葉月がナンパにしつこくされて困っていたのを見かけたので、間に入り込んで助けた。さすがのナンパ男も1対3の状態に遠慮したようだった。
そのまま3人で買い物をすることになったのは、葉月のようなかわいい女子がひとりでいるとまた声をかけられそうだったから。これが弥生と葉月の二人だけだとさらにナンパされそうだが、私もいればきっと大丈夫だろう。
弥生も葉月とは何度か面識があり、葉月も弥生のことをかわいいかわいいと抱き着いて愛でていた。
「さっそくですが、葉月さんは何を買いに来たのですか?」
一緒に買い物する上で、こちらだけの目的を果たすわけにはいかない。弥生は葉月が何を買いたいのか確認して、効率よく回ろうと考えているのだろう。
「私は秋コーデを見にきたんだよ~。もうお店に並んでると思うから」
まだ8月だというのに、もう秋の服を買うのかと感心する。やっぱり葉月のように見た目に気を使っている人は流行りに早く乗っているようだ。
「私たちは姉さんの部屋を簡単に模様替えしようと思っているので、小物やカーペットなどを見にきました」
「模様替えするんだぁ! 私もおすすめのかわいいもの紹介していい!?」
模様替えと聞いて、テンションを一段と上げる葉月に、弥生も「ぜひ!」とテンションを上げて応える。部屋主を置いて楽しそうだな、なんて他人事のように感想を抱いた。
家具一式を変えなくても、小物を机に置いたり、カーペットやベッドのシーツの色を変えるだけでも十分に印象が変わると言われて、茶色や黒の家具にあう色を探す。弥生と葉月は濃い緑の円いカーペットや白いカーテンだったりをお互いの意見を出しあって物色している。私はもちろん置いてけぼりだった。
話に混ざれないので近くで小物を物色する。こういうものが好きだなと、猫をモチーフにしたデザインの照明や時計、写真立てを眺める。かわいいからこれなら部屋に置いても良いだろうと即買いを決めた。猫だから仕方ない。
「わっ!」
「うおっと!」
猫グッズに夢中になり、よく周りを見ていなかったせいで他の人にぶつかってしまう。「すみません」と謝りながらその人に視線を向けると、金髪に灰色のメッシュが入った短髪で、おそらくカラコンだと思うが、紅い目をした男性がびっくりした様子でこちらを見ていた。日本人ではない顔立ちで、男性が開いた口から出た言葉は日本語ではなく英語だった。
「いや、すまん。俺も前を見ていなかった」
男性は申し訳なさそうに軽く頭を下げてくれるので、こちらも頭を下げると、男性の持っていた買い物カゴが目に留まった。そこには大量の猫グッズだ。この人も猫派のようで、私と同じくグッズに夢中になっていたようだ。
私がカゴに目を向けていることに気づいたのか、男性は顔を赤くして恥ずかしそうにしている。
「いや、これは姉が好きだから買っていくだけで俺の趣味じゃないぞ!?」
そんなこと聞いてない。しかし、この人は、男性がかわいい物を買っていることが恥ずかしいと思っているのだろうか。個人的には全然いいと思うし、かわいい系男子なんてよくいると思う。
「いえ、良いと思いますよ? 猫かわいいですし、それとか最高ですよ」
顔を赤くしている男性になんだか申し訳なくて、下手なフォローをしてしまう。実際猫はかわいいし、同じ猫派としてネガティブなまま買い物を続けてほしくなかった。
「そう! これいいよな。お前もわかってくれるか」
急に笑顔になり、その猫グッズ、猫が着物を着て扇を持っている置物を目を輝かせて私の眼前まで持ってきた。いや、適当に最高といったけどセンスないなこの人。なんだそれ。
「やっぱり日本と言えば着物だよ。それをこんな愛らしい猫が着ているなんて不思議と魅力的だよな。さすが、栄誉ある英国人だ」
「……英国人って、私がイングランド出身だとなぜわかったの?」
私の見た目は日本人よりだと思う。髪も黒いし、顔立ちはお父さん似だ。英語は日本の学生ならできるだろうし、どこから私がイングランド――――イギリス人だと判断したのだろうか。
「あ、いや……えーっと、発音が綺麗だったからそうなのかと思ったんだよ」
男性はそんなことを言いつつ、「それじゃあ、すまなかった」と言って足場やにレジの方へ向かっていく。明らかに不審な人だが、そういう人には関わらないほうが良い。
私も買うものを決め、男性に遭遇しないように時間を置いてからお会計を済ませた。一部は家まで宅配を頼んだ。電車できているのでこのあと服を見たり別の買い物をしたあとに重い荷物を持ちたくなかった。
次は葉月の目当ての秋服を見る。同じ歳頃の女子が思いの外多くて、この時期に秋服を買うのは普通のことなんだと衝撃を受けた。
なんといえばいいのか、長袖とか重ね着とか、おしゃれなのはわかるのだがどうしても暑そうという感想を抱いてしまう。日本の秋は暖かいので、私はもしかしたら夏と同じような格好をしたがるのではないかと未来の自分を想像した。
「姉さん! これ絶対に姉さんに似合うと思うんです!!」
丈が長いコート……ではなく、なんか上に羽織るやつを持ってきた弥生は、家具のときよりもテンションが高かった。
「このシャツワンピースなら緩く着れると思うので、姉さんも気に入っていただけると思うんです」
「ありがとう、それじゃあ買おうかな」
「ダメですよ、ちゃんと試着してみないとサイズとか、何と合わせるかとかわからないじゃないですか」
暑そうなので正直、今は着てみたくない。
「花月ぃ! これも似合うと思うんだけど~、どうどう? 弥生ちゃんと双子コーデもしてみない?」
私と弥生は双子ではないが、たぶんファッション用語的なものなのだろう。わからないけど。
あれだこれだと2人に着せかえ人形にされて、疲れた私は先にテナントの外で休憩をしていた。でも弥生が楽しそうでよかった。私と離れたくない弥生は買い物を済ませ、一緒にベンチに並んでる座っている。
「ごめんね~、待たせちゃってぇ」
葉月が紙袋を片手に合流する。満足のいく買い物ができたみたいだ。
「あ、弥生。葉月。あれ食べたい」
少し先にクレープ屋さんがあったのを見つけたので、2人に提案する。3時くらいで、ちょうどおやつの時間だからいいだろう。疲れを甘いもので癒したい気持ちもあった。
「いいねぇ! タピオカ!」
「美味しそうですね、ソフトクリーム。」
見事に3人とも好みが違った。クレープ屋さんだと思ったが、2人がいうようにソフトクリームもタピオカも売っているようだった。あらゆる需要に対応しているお店に脱帽だ。
一口ずつわけあったり、甘いものに癒されたりしたあとは、いろんなお店を回ってウィンドウショッピングを楽しんだ。ペットショップで猫様を拝見させていただいたりもした。だいぶ時間も経ち、もうすぐ夕方になる。そろそろ帰ろうかなと考えていると、弥生がアクセサリーショップの前で立ち止まった。
そのお店は高級な感じではなく、若者向けの品揃えだ。男女問わずなのか、かわいいものもかっこいいものも置いている。ちらっと奥を見るとドクロなんかも見えた。品揃えが良すぎないかと思ったが、如何せん弥生はそのドクロが見えたところへ一直線である。
「かっこいいです」
弥生は部屋もおしゃれだし、服もセンスが良い女の子だが、中学2年生を拗らせてオカルトやホラーも大好きだ。ドクロもストライクゾーンだったらしい。
「弥生ちゃん、ああいうのも好きなんだね~。ちょっと意外だけど好きなものが多くていいなぁ」
葉月は興味がないようで、お店の手前にあるかわいいアクセサリーを見ながら、そんな優しい感想をくれる。本心から肯定してくれてるから、葉月は本当にいい子だ。
私も弥生の隣に立つ。こういうものは意外と高くて、おそらく弥生では手が届かないだろう。どうしても欲しいのなら私が買って上げてもいいかな。弥生が眺めているものを見てみると、それは銀色に輝く十字架のネックレスだった。値段は2900円くらいで、ネックレスにしては少し高めに感じる。でも買えないわけではない。
「それが気に入ったの?」
「気に入ったと言いますか、姉さんに持って欲しいなと思いまして」
私に持って欲しいとはどういうことだろう。あまりオカルトには興味がないし、特別ほしいと思うようなデザインではない。
弥生はちらっと葉月を一瞥する。そして私にだけ聞こえる声量で言葉を続けた。
「吸血鬼の弱点に、十字架を掲げると力が出ないというのがあるんです。これを身に付けていれば殺されないかなと思いました」
なるほど、吸血鬼には弱点があるらしい。確かにそういう対処でイディアの書の内容を回避できるなら、試す価値はありそうだ。
「わかった。買ってくるね」
「あ、いえ。私が買いますよ」
「私のためなんでしょ?それから、せっかくなら弥生とお揃いにしたいな」
私は十字架のネックレスを2つ取り、お会計を済ませる。合わせて6000円弱なので、今月のお小遣いはほとんど使い果たしてしまった。
「お揃いなら、片方は自分で払います」
買ったそれを弥生の首にかけてあげていると、弥生は納得いかないと自分の財布を取り出した。
「えー、プレゼントさせてほしいな。かわいい妹のためなら姉さんはなんでもできるんだよ」
からかうように褒めてあげると、弥生は嬉しそうに「ありがとうございます」と、ネックレスを受け取ってくれた。
自分の分も首から下げ、弥生とお揃いなのと、吸血鬼対策ができた。一石二鳥だ。
「――――きゃああああああああ!!!」
私たち3人は甲高い悲鳴に、3人とも肩を跳ねさせる。声のした方向を見ると、遠くで倒れている人が見えた。驚くことに地面は赤い水が広がっているようで、明らかに事件だった。
遠くとはいえ、しっかりとそれを見てしまったせいで、弥生も葉月も気分が悪そうになった。
「えーっと、向こうに行こうか」
あの場から離れたくて、倒れている人に背を向けて歩き始める。私たちは完全に無関係だ。近づくのもやめておこうと思う。このショッピンクモールは監視カメラも豊富だし、なにかの事件でもすぐに警察が解決してくれるだろう。
2人の具合を心配して、声をかけながら歩いていると、ふと視界に長い銀髪が映った。私とすれ違ったその人を見るために慌てて振り返るも、どこにも銀髪の人なんていない。
「姉さん?」
「ううん、なんでもない」
探すように視線を向けたまま、弥生に応える。結局、私の見間違いのようだった。
その後警察が来て、私たちも帰り際に軽く質問されたが、無関係だということですぐに帰れた。
「楽しい買い物だったのに、最後だけ怖かったね」
今日も一緒に寝るために横にいる弥生にそう言う。弥生は眠そうにしながらいつまでもネックレスを眺めていた。
「夕方のニュースにはありませんでしたね。SNSだと殺人事件だと噂されていますが」
それは嫌な情報だ。嘘でも問題だけど、嘘であってほしいと思う。
「なんでも、鋭い爪で切り裂かれたような痕だったらしいですよ」
「いやー、言わなくていいから」
オカルト好きだからか、実物でなかったら平気そうな弥生が言う。時間も遅くなってきたので、これ以上余計な情報を聞かされる前に眠ることにした。電気を消して、弥生と挨拶を交わす。
「……姉さん、吸血鬼のお話のなかには、鋭い爪で引っ掻いてくることもあります。それから、吸血鬼は人の影に潜ったり、大量の蝙蝠に変身もできるんです」
暗い中で弥生が新しく教えてくれた情報は吸血鬼のことだった。さっき調べてみたが、吸血鬼が十字架を嫌うことはそんなにマニアックな話ではないみたいだ。映画にもなっていたりする。吸血鬼に対して無知な私に、弥生は教えてくれていた。
「十字架の他にも、吸血鬼はにんにくの臭いも嫌いです。太陽光を直接浴びると灰になったり、心臓に木の杭を打たれても死んじゃいますが、それ以外の方法だと倒せないんです」
「それじゃあ、昼間は大丈夫なんだね。だったら、明日は時間になるまで外にいようか」
「本物の吸血鬼とは限りませんから、ダメですよ。明日は私と居間にいてください」
それもそうだ。本物の吸血鬼ではなく、揶揄された殺人犯の可能性の方が高い。きちんと戸締まりをして、家のなかにいた方が安全だ。我が家はお父さんのおかげでセキュリティは万全なのだから。
明日の16時52分。イディアの書が示す私の死んでしまう時間。さっき改めて見てみたが、記載に変化はなかった。
私は、まだ死ぬつもりはない。
そんな決意も虚しく、私は死んでしまう。吸血鬼と揶揄される殺人犯ではなく、本物の吸血鬼によって。