04.天原北高校
ショッピングモールから自転車で20分。山が連なる街外れ。その中の一つ、小さな山の麓に、その高校の校門があった。
天原北高校である。
校門からは、長い坂道が鬱蒼とした森の中に続いていて、高校の建物自体は下からでは見えない。
校門は開いていた。
自転車を押しながら二人、長い坂道を登る。
「この下を通る度に、不思議な学校だな、とは思ってたんッスよ。校門はあるのに、下からは全く建物も見えない。どうなっているんだろって。でもまさか、神様の学校だったとは」
「ほう。先ほどの私の話、信じてくれたようじゃな」
「まあ、先輩はすぐにばれる嘘を付くような人じゃないし。で、ここに来たってことは、決闘場所が学校のどこか、ってことッスよね?闘う相手はどんな奴なんです?生徒会執行部に入るために現任者と戦うってことは、これから闘う相手は先輩の就きたいポストにいる人ってことッスよね?やっぱり、生徒会長?」
「否。これから闘うのは、書記じゃ」
「先輩、書記になりたいんスか?」
「それも否じゃ。私がなりたいのは、学園の方針に全権を持つ、生徒会長。選挙運動のルールではな、上のポストに就くには、その下のポスト全てを倒さなくてはならんのじゃ。例えば、序列が下から四番目の副会長になりたければ、序列最下位の書記、その上の会計、そして学園祭実行委員長の三名を倒さなければならない。つまり私の場合、倒すのは―――」
美咲は翔鬼の方にズイッと顔を近づけた。
執行部の恐ろしさを強調したいのだろうが、翔鬼にとってはその魅力にドキドキする瞬間でしかない。
「会長以下、五人全員じゃ。格下から順に、書記、会計、学園祭実行委員長、副会長、そして、生徒会長」
「そいつら、強いんスか?」
「それはもう、格段にな。私達の間では、神格―――つまり、神としての能力の高さを表すのに〝号〟という基準を使っておる。数の小さい方が強いと考えて相違ないのじゃが、奴らは全員、二号神じゃ」
「ちなみに先輩は?あ、ひょっとして、一号神とか?あの、なんでしたっけ?絶対呪詛?あんなん喰らったら一発じゃないッスか。俺が協力しなくとも…」
「それが、言いにくいんじゃが、あれが使えるのは一日三分が限界でな」
地球を怪獣から守る巨大な宇宙人の姿が頭に浮かんだ。
「故に、私の神格は五号じゃ」
そうこう話している内に、開けた場所に出た。
学校の本体に辿りついたらしい。
あの小さな山の頂上とは思えないほど、学校の規模は大きかった。
「見た目には普通の高校と大差ないッスね。特に変わった場所も無さそうだし」
建物そのものは年季が入っており、それなりに歴史を感じたが、それでもせいぜい築三十年といった所だろうか。
「何度も建て替えられておるからな」
見てきたように、美咲は言った。
自転車を置くと、美咲は校舎を素通りし、奥へ進んでいく。
向かう先には、体育館があった。どこにでもある、普通の体育館。
「誰もいないッスね。夏休み中といえども、部活とかは無いんスか?」
そう、ここに着いてから、何となく感じていた違和感を口にしてみた。
時間はまだ夕方である。
普通の学校であれば、部活動や補習授業があり、それなりに賑わっていてもおかしくない。
「もちろん普段は部活もやっておる。今日は、私の選挙運動があるからな。決闘の日は、当事者と関係者以外、他の神々は立ち入り禁止となるのじゃ。一対一が基本であるからな」
「俺はいいんスか?一対一じゃなくなるんじゃ?」
「そなたは人間だから平気じゃ。さあ、着いたぞ。ここが会場じゃ」
体育館の、大きな鉄製のドア。
美咲はそのドアのノブを回した。中に入る二人。
体育館の中に入った翔鬼は、目を回した。驚きすぎて、目を回した。
彼は何に対してそれほど驚いたのか。
―――体育館の中は、体育館の中ではなかった。
別に哲学的な問いかけをしたワケではない。
彼の見たままを表現すると、先の一文となるのだ。
そこには、荒野が広がっていた。
岩がゴロゴロする、足場の悪い土地。
少し離れた所は野原になっていて、その奥には森も見える。
振り返ると、ドアはあった。しかし、ドアしか無かった。
体育館のドアのみが背後に、極めて不自然に存在しており、どうだ?と言わんばかりの顔をした美咲がそのドアの傍らに立っている。
「このドアはな、無人島に繋がっておるのじゃ。ウチの学校はちと生徒数が多すぎて、通常のグラウンドでは狭すぎるのじゃ」
蒸し暑さと日の傾き具合は外と変わらない所を見ると、日本国内であると思われるが、確かに海が見える。
加えて今翔鬼が立っている足場の悪い場所から十メートルほど後ろは、断崖絶壁となっていた。
下はすぐに海である。
「じゃーはっはっはっは!これは愉快!人間じゃねえか!戦いの場に人間を連れてくるなんて、一体何のつもりだあ?ていうかさ、これってルール違反じゃねえの?」
数十メートル先、野原となっている場所に、奇妙な生物がいた。
いや、一応人の姿をしている、と言っていいかもしれないが。
顔には、タイガーマスクならぬ、熊の顔のやたらにリアルなマスクをしていて、上半身は裸の上から分厚い毛皮をマントのように被っている。
下半身は、赤いモンペに雪駄。
彼のファッションに簡単なキャッチコピーを付けるとすれば、夏は灼熱冬は極寒、と言った所だろうか。
…実際熱いのだろう。彼の上半身にはすでに大量の汗が光っている。
「いや、あれはルール違反ではない。人間では助太刀にもならんでな」
熊マスク男の隣には、見た所小学校低学年ほどの、着物姿の女の子が立っていた。
座敷わらしを連想させる、おかっぱ頭のその少女は、顔にひょっとこのお面をしており、どことなく不気味な雰囲気を漂わせている。
「先輩、さっき当事者以外立ち入り禁止、って言ってませんでした?向こう二人いますよ?いきなり絶体絶命じゃないッスか?」
「うむ、私は〝当事者と関係者以外立ち入り禁止〟と言ったはずじゃ。一人は対戦相手ではない。では誰かと言うと、関係者も関係者、この選挙運動の見届人、天原北高校の校長先生その人じゃ」
「校長?いや、校長にしてはえらく個性的な恰好ッスね。あれじゃあ神様っていうか、クマ牧場のゆるキャラッスよ」
「む、校長はそっちではない。その隣の、ちっこい方じゃ。見た目の年齢と神格は一致しないものでな。ああ見えても列記とした二号神であるぞ。ちなみにこの学校の校長は、二号神の中から毎年ランダムに選出される持ち回り制なのじゃ」
「てことは、今日先輩が対戦するのは…」
「そう、あっちの、クマ牧場…じゃなかった、書記の、常呂常長じゃ。見てのとおり、あやつは、動物神最強の〝熊神〟。腕力、速度、どれをとっても、人間を含めたあらゆる動物の中で最強の、熊。その熊の神様じゃ」
「いきなり最強?大丈夫なんですか?」
「案ずるでない。所詮は獣神。直接攻撃さえかわし切れば、いくらでも策はある」
おかっぱの神様が、常長と翔鬼の間に歩み出た。
「選挙運動に人間を連れてくるとは、酔狂なことを。なあ、ミサキ神、満月よ。人間の男に惚れたのか?それとも、生贄かな。どちらにせよ、今日は楽しい試合が見れそうじゃ。ルールに乗っ取り、どちらかが戦闘不能になるまで、童は高みの見物としゃれこもうぞよ」
ふわりと浮きあがるその少女。ふと翔鬼にお面を向けた。
「ミサキ神に憑かれた哀れな男よ。ここで果てれば文字通り神隠し。御霊ごと二度と家には戻れまい。あな悲しや、あな憐れや」
そう言いながら、少女は天高く浮かんでいく。どこまでも。
そして一瞬大きく輝いたかと思うと―――消えた。
空に融けるように。
同時に、ひと際大きな声だけが降ってきた。
「いざ、始めいっ!」
その合図と共に、美咲の眼が赤く光る。
「我が内に眠る御霊よ。我が内なる神性を用いて、陰と陽、天と地、水と火、太陽と月、流れる力の全てを持って呪いを成し、かの者をこの言魂を持って縛りたまえ!」
美咲の口からそれらの言葉が形をとって現れる。
熊神・常長へ一直線に向かう、縛りの言葉。
絶対呪詛だ。
「じょじょ?!か、身体が、動かないじょ?」
絶対呪詛の名は伊達ではない。
その効果は、熊神であってもてきめんだった。
「さあ、翔鬼殿。私の呪詛が解けぬうちに、私をしかと縛りあげてくれい。遠慮はいらん」
そう言うと、美咲はおもむろに制服を脱ぎ始めた。
「わわわわっ!先輩、何するんです!別に制服の上からでも縛れますから!青少年には刺激が強すぎますから!」
「いやいや、何を申しておるのじゃ。制服のまま亀甲縛りなど、それこそ縛られている私も変態みたいではないか。安心せい。ちゃんと縛られ易く、なおかつ変態に見えない恰好をしてきたのじゃ」
制服を脱ぐと、その下は何と…。スクール水着であった。
「いやいや、それ充分アウトッスよ!いやありがたいけれども!」
「これ、躊躇しておる時間などないぞ。私は覚悟できておる。翔鬼殿も、心を決めてとりかかってくれ。縛りが完成すれば、降神の儀式は八割方終わったも同然なのじゃ」
翔鬼は意を決し、リュックから縄を取り出した。
亀甲縛りと、降神の儀式―――。
この二つの繋がりのことを、翔鬼はよく知っていた。
それは亀甲流の始まりと、切っても切れないお話。
世間一般の緊縛のことを翔鬼が初めて知った日に、父が話したことだった。
神亀、という言葉がある。
長寿である亀は、古来より神聖なものとして崇められてきた。
また、神社の注連縄しかり、各地の縛り地蔵しかり、「縛る」行為もまた、神の存在を示すもの。
これらの事実に着目した亀甲流初代、羽曳野曳鬼は、神の力によって罪人を清め、悔い改めさせる流派として、亀甲流を始めたという。
そのため、曳鬼は自分のことを「御神之手前」つまり神の使い、「御前」であると自称したという。
周りはイタイ奴だと相手にしなかったそうだが。
美咲がミサキ神だと言った時、亀甲縛りに目を付けたのも何かの縁かと思えたのだ。
翔鬼は縛る。膝をついた格好で目を瞑る、美しいその人を。
思っていたより華奢なその身体は、縄の結び目が動くのに合わせ、時折ピクンと反応する。
またその時には「あっ」とか「うんっ」とか耳元で聞こえる訳だが、当の翔鬼がそれに何がしらのやましい気分になることは決してない。
彼は黙々と縛るのみだ。
縄と、縛る対象を前にした翔鬼の姿は、鬼の形相の武術家であり、踊るように縄を扱う舞踏家であり、神に祈りを捧げる巫女のようにも見えた。
ものの一分で、完成した。
「亀甲流拾の型、〝菊座菩薩〟!」
上半身を大き目に、下半身を細かく太ももまで縛るこの型は、一般的に「大菱縄」と呼ばれる縛り方を亀甲流に改造したものである。
胸を圧迫せず、股にも強い負荷がかからないこの縛りは、翔鬼の美咲に対する想いを反映し、百%の優しさで出来ている。
「素晴らしい…。これは本当に素晴らしい縛りであるぞ翔鬼殿…」
その縛り目の美しさに感じ入った美咲は、感謝の眼差しを翔鬼に向けると、すぐに胸の前で手を組み、降神の儀に入る。
これに必要なのは一言の口称だけである。
「―――高さ失え我が主―――天孫降臨!」
地響きと共に神が降りた。―――翔鬼の中に。
「て、え?え?…あれ?」