01.高校生アルバイトのとある日常
「えらっしゃーせー」
自分に出せる精一杯の愛想でもって、羽曳野翔鬼は来店した客を出迎えた。
「何だ、美咲ちゃんいねえのかよ。てめえみたいな無愛想な野郎から買う気にはなんねえよ。美咲ちゃんの爪の垢でも煎じて飲みな。じゃあなっ」
「あざーしたー」
言いながら、ケチャップボトルを握りしめた手を振りあげる。血祭りじゃあ!
「これはこれは翔鬼殿。レジでケチャップを振りあげて、何をしているのじゃ?」
店外の倉庫にゴミを出していた女性店員が戻り、翔鬼に後ろから声をかけた。
「あ、みみみ満月先輩!いつからそこに?」
驚いて間抜けな声を出した翔鬼であったが、すぐに取り繕う。
「これはですね、えーっと、そう、筋トレッス。いざという時先輩を悪党から守るため、私翔鬼は日夜トレーニングに励んでいるッスよ」
赤みがかった長髪のその女店員は、口元に手を当ててクックと上品に笑う。
精緻に作り込まれた人形のような顔立ちは、どこか高貴な印象を受ける。歳の頃は、16、7といった所だろうか。
「相変わらず翔鬼殿はユニークであるな。だが一つ覚えておくといい。お客様は神様じゃ。其方は、神社でご神体に向かってケチャップを投げることができるか?お客様に対しては、常にそのような心構えで向き合わねばならぬ」
「はい、先輩!心に響きました!」
少々時代錯誤な喋り方をするこの美少女、名を満月美咲という。
先ほど登場した満月と同一人物かは、全くもって不明である。
なぜなら時は現代。加えてここは、全国チェーンを展開するハンバーガーショップ「ニコネコバーガー」店内だ。
場面転換甚だしい。
「先輩、ゴミの処理だったら俺がやるのに、わざわざすみません」
「うむ。私は、殿方に甘えるような女子にはなりたくないのじゃ。どうも皆は、私を甘やかしているようで…。私は、どんな仕事でもキチンとやりたい。翔鬼殿はいつもトイレ掃除やゴミ出しを率先してやっておるだろう?私もそれを見習いたくてな」
翔鬼がそれらの仕事をやっていたのは、偏に美咲の手から「汚い物」を遠ざけたかった為だ。それほど美咲の美しさは群を抜いていた。
実は翔鬼だけでなく、今日のシフトにいない他のアルバイト達も、同様の考えを持っていて、それを薄々感じ取っていた美咲は今日、一緒にシフトに入った翔鬼に対し、トイレ掃除とゴミ出しをやらせてくれと頼んできたのであった。
「憧れの先輩」の最上級。
翔鬼にとって美咲は「完璧」な先輩だった。
完璧なのはその美貌だけではない。
周囲の人間すべてに向けられる優しさ。仕事は丁寧かつ迅速。おまけに接客時に見せるその笑顔はあらゆる人間を虜にできるレベルであり、視察に来た社長が美咲のために「スマイルクイーン」というポスト(?)を設けたほどだ。
店内で撮影された美咲の笑顔の写真は、本人合意のもと本社ホームページのトップを飾っている。
「先輩。これは俺からの頼みなんスけど…。やっぱり夜のゴミ出しは明日から俺がやります。まだ8時とはいえ、女の子一人で外作業なんて心配ッスよ。最近この辺りで強盗も出てるみたいだし」
「クック。翔鬼殿はまことに心配症じゃな。大丈夫であるよ。私はこれでも腕っ節には自身があるのじゃ」
勘のいい読者ならお気付きかもしれないが、強盗、なんて単語が出てきたのは前フリ以外の何でもないわけである。ただ、物語進行上の屁理屈を抜いても、翔鬼がそれを口にしたのにはちゃんと理由があった。
今、この店にいるのは合わせて三人。店長が休日のため、店員は二人。あとの一人は客席にいた。
ここ小一時間ほど、バーガー一つ注文しただけで滞在し続ける中年の男性客である。
時折、レジカウンターの方に目をやり、何かを観察しているようだった。時々目が合う。翔鬼は彼のことを、何となく不審に感じていたのだ。
美咲が、レジのお金の精算(データと中のお金が合っているかの確認作業だ)に入った時だった。中年客は席を立ち、札を数える美咲にゆらり近づく。
カウンター越しに、小声でこう呟いた。
「金を…くれ。全部だ…」
「嫌じゃ」
美咲は気持ちいいほどキッパリと断った。
「貴公の眼は、迷いを映しておる。悪いことは言わん、やめておけ」
説得するために放たれたそのセリフは寧ろ、彼の地雷を踏んでしまったようだった。
「俺に情けをかけたつもりか、この小娘が!なめるな!」
小太りの体で意外なほど軽やかに飛び上がった彼は、レジカウンターを乗り越え、美咲の隣に降り立った。
「先輩!お金を渡して下さい!」
翔鬼は心から懇願した。
行動を起こしてしまっている悪党に抵抗するのは非常に危険だ。既に「悪」の一線を越えたその男は、先輩にいつ危害を加えてもおかしくないドス黒さを纏っていた。
自分の身を案じる後輩に向けて、美咲はニコリと微笑んだ。心配するな、といった表情。
「貴公は現時点では強盗ではない。だが、私がこのお金を渡した瞬間、強盗と成り果ててしまう。私は、貴公の引き返せる道を潰す気は無い」
一体この人は、悪というものを知らないのだろうか?
だが、美咲の想いがどうであれ、この状況では最悪の結果になりかねない。
「ダメだってば先輩!早く渡して!」
「ちくしょう…小娘がぁ…ちくしょう…」
男は、背負ったリュックを後ろ手に探る。そこから取り出したのは、刃渡り20センチほどのナイフだった。
翔鬼の体は自然に動いていた。
彼は強く想ったのだ。
美咲に指一本触れさせたくない、と。
例えこれから起こることが、その結果が、「最悪」だったとしても。
最悪―――そう、今後この店、あるいはこの街で「変態」というレッテルを半永久的に貼られようとも。
「痛え思いしたくなかったら、早く金渡しやがれ!」
興奮した男は声を荒げ、ナイフを振り上げ…ようとした。
しかし、出来なかった。
ナイフを持った右手が言う事をきかない。男の手からナイフが落ちた。
男の頭に一秒ごとに疑問符が増えていく。彼の理解よりも、状況の変化速度の方が圧倒的に速かった。
いや、迅かった。
「初段。早縄〝傀儡鬼〟」
男の右手と左手はいつの間にか縛り上げられており、首の後ろにピタリとくっついている。
両足首に巻かれたビニール紐はカウンター台の脚部に固定されており、両脚を開いたこの状態でもって、男の四肢の動きは完全に固定されていた。
男の首に、タオルをかけるような形でビニール紐が垂らされる。
首の前で緩くクロスされた紐は、体の前面で3つの輪になるよう瘤が作られている。
股を通って背中に回される紐。
「や、やめろ。それ以上は…」
恐怖に震える男の声。しかしそんな声も空しく、それは着実に仕上がっていく。
背中から前面に戻された紐は、輪に引っかけて再び背中に回される。これを繰り返すことで、輪が徐々に開いていく。
猛烈な速度で、六角形が三つ出来た。
これにて完成。
脚を開いた状態で、体を反らし、美しい六角紋様に縛り上げられた男。
両腕を縛る紐は頭上のダクトを通され、翔鬼が引っ張っている。
そのため全身の恥ずかしい縛られ姿を、正面の美咲に思い切り晒すポーズのまま、男は決して身動きできない。
「亀甲流零の型〝簡易亀甲・青海亀〟。お前にはこれで充分だ。どうだ?恥ずかしいだろ?今と~っても恥ずかしい気分だろ?ふはっ。うけけっ!ふは~っはっは!」
「らめ…らめえぇ!もうやめてぇ!ごめんなさいぃ!」
中年男の情けない叫び声は、店の天井を遥かに突き抜け、夏の夜空に融けていった。
☆
―――亀甲流捕縄術。
それは江戸時代より続く武術の一流派である。
捕縄術とは、柔術、早縄術、緊縛術を組み合わせた、罪人の逮捕とその後の拷問のための技術全般のことを言う。
江戸町奉行所の盗賊改であった羽曳野曳鬼は、この捕縄術の「早縄」と「亀甲縛り」だけを追求する、特殊な一派―――それが亀甲流捕縄術だ―――を大成させた。
明治までは警察学校でも必須であった武術としての捕縄術は、「手錠」の登場により、衰退の一途を辿る。
その中にあって亀甲流は、その特殊性(変態性・特殊性癖とも言ってよい)のもたらす強烈なインパクトによって、現代まで唯一生き延びた、捕縄武術なのである。
現在高校一年生の羽曳野翔鬼は、その師範代の称号を最年少で得た捕縄の天才。亀甲流十代目の縄師なのであった。