私のご主人様
「私は礼が美しくなるより、剣舞を美しく舞えるようになりたいです」
礼儀作法講師の橘葵先生に向かって、可愛らしくそう言ってのけたのは、他でもない私の主人、飛那姫様です。
先生は無言で硬直したまま、笑顔を絶やさずに視線を泳がせるという、微妙な表情になってしまわれました。
姫様の担当になって日が浅い先生ですから、今の発言に相当混乱されていることが推察されます。
これは姫様付の侍女として、私がお助けせねばならない事態でしょう。
「飛那姫様、礼の美しさは剣舞の美しさにも通ずるところがあると思いますよ」
どこが、とは聞かないで欲しいと思いながら、私はそう愚見を挟みます。
飛那姫様は可愛らしい大きな茶の瞳で私をちらっと見て、うーんと首をひねると、「そういうものかしら」と呟きました。
事の発端は、橘葵先生が先日の礼節を学ぶ授業で、飛那姫様に礼の角度についての課題を出されていたことに始まります。
2日後の今日、課題の礼について何も練習をされていなかった飛那姫様に、先生は少々ご立腹で仰いました。
「姫様、一日も早く美しい礼が身につくよう、努力されたいとは思わないのですか?」
そして、飛那姫様の冒頭の台詞に戻るというわけです。
大変残念ですが、第一王女であるにも関わらず、飛那姫様には「美しい女性になる」という観念が最初から欠落されていらっしゃいます。
6歳という幼さながら、そのお可愛らしい容姿は他に勝る者が無く、成長すればどれほど美しくなられるか、想像するだけでため息が出るほどです。
それなのに、飛那姫様は可愛いドレスにも、素敵な礼儀作法にも全くご興味がありません。
美しい成人女性になられた飛那姫様が、礼儀作法を欠いて、相変わらずドレスよりも動きやすい服装を好まれて、剣を振り回していたらと思うと、私は別の意味でため息が出ます。
我に返られた先生が講義を再開され、飛那姫様はしぶしぶといった感じでお稽古を始めました。何につけても頭の回転が大変に早く、覚えの良い方ですから、真剣に学びさえすれば何も問題はないはずなのですが……
「最大の感謝を表す礼は、このように胸で手を交差して……そうです。そうして角度はここまでですよ」
東の生まれにしては明るい、重さを感じさせない茶の髪がふわりと舞い、たおやかな礼で飛那姫様が微笑みます。
講義を見学している他の侍女達は、うっとりとため息をもらして飛那姫様を眺めています。
間近での王女スマイルは殺人的とも言える威力ですから、無理もありません。
礼儀作法の講義は嫌だといいながらも、日々可憐な礼が出来るようになっていく飛那姫様を、私はとてもうれしく思っています。
私の主人が、礼儀作法や学問よりも剣術の方がお好きで、天賦の才がおありの方だということは分かっています。
ですが、もう少しだけでも女性として正しい方向で、美しくなるための努力をしていただきたいと願ってやみません。
(美しい剣舞ですか……)
騎士団にも女性は少数いますが、普通の王族の姫君は剣術を習いません。
習う機会があったとしても敬遠されるでしょうし、そもそも男性に敵わないと分かっていながらその土俵に上がることをよしとしない風潮があります。
「姫様、次にお会いするときまでに、必ず今日の礼を練習しておいてください。よろしいですね?」
「……はあい」
心底疲れたような顔で先生が帰られると、飛那姫様はうれしそうに窓に走って行きました。
バルコニーに続く大窓を開け放つと、気持ちよさそうに深呼吸をされます。
飛那姫様のお部屋のバルコニーからは、庭園の一部が見えるようになっていて、更にその向こうには騎士団の演習場が見えるのです。
精鋭隊の何部隊かが訓練をしているのが分かりました。
キラキラした目で飛那姫様が私を振り返ります。
「令蘭! 今日はもうお勉強は終わりよね?! 今から騎士団の稽古に参加しに行くわ! 着替えさせて!」
そう仰ると思っていました。
一国の王女が、騎士団と稽古……はたから見たら、非常識極まりないことだと思いますが、国王様がお止めにならない以上、私にもどうしようもありません。
「飛那姫様、もうすぐ昼食のお時間ですから、せめて召し上がってからにいたしませんか?」
「えええ? だって昼食まで後1時間はあるのよ? 時間がもったいないじゃない。私、昨日の剣舞の型を早くもう一度やってみたいの!」
「午後からゆっくりと練習されればよろしいではありませんか」
「嫌! だって退屈なんですもの! 着替えさせてくれないならこのまま行っちゃうから!」
バルコニーの手すりによじ登って、飛び降りんがばかりの主人に、私はため息をつかずにはいられません。
「分かりました……その代わり、昼食の10分前にはお部屋にお戻りになられますよう、お願いいたします」
「はーい!」
とても良いお返事です。
王女らしくはありませんが……
他の侍女が濃い桜色の和袴をクローゼットから出してきました。
私は飛那姫様のワンピースを着物に着替えさせ、着崩れないように帯を締めて整えていきます。
何を着てもお似合いですが、この姿の飛那姫様がいつもの3倍は生き生きされているように思えるのは、気のせいではないでしょう。
「もう行ってもいい? 早く早く!」
急かされながら編んだ髪を整えて、全身をチェックです。
「はい、よろしいですよ」
「ありがとう令蘭! 時間がもったいないから先に行くね!」
「先にって……飛那姫様!」
止める間もなく、飛那姫様は開いた大窓からバルコニーに飛び出しました。
「飛那姫様! お待ちください!」
軽くジャンプして手すりに足をかけた次の瞬間には、飛那姫様の小さい体が空中に飛び出していきます。ここは2階ですが、城なので普通の建物の3階分の高さがあるでしょう。
姫様付きに慣れていない侍女が、背後で悲鳴をあげたのが聞こえました。
「バルコニーから出るのはいけませんと、あれほど……!」
手すりに走り寄って下を見下ろすと、庭園を横切って駆けていく飛那姫様の姿が見えました。
生まれつき魔力が豊富で身体能力の高い飛那姫様には、この程度の高さから飛び降りることに危険はないと知ってはいても、いつも心臓に悪い思いがします。
ロイヤルガードの近衛兵も、部屋の外に置き去りではありませんか。
すぐに飛那姫様を追うように通達しましたが、城の中とはいえ、王族の姫君が護衛もつけずにお一人で走って行ってしまう事態に、頭が痛く思います。
「いつかは王女らしく、おしとやかになってくださるのでしょうか……」
現時点では全く予想出来ないことを、つい口にしてしまいます。
一番の悩みの種で、一番愛おしい小さな姫様を追って、私は足早に部屋を出ました。
バルコニーから飛び降りるのをやめていただけるよう、今日こそは国王様に報告しなくてはと思いながら。
『没落の王女』番外編でした。
前章の序盤部分に対応したSSです。