第一話 発現! 驚異の異形甲冑!
あたしは異形の群れを屠っていた。
足刀で蜥蜴型異形【ラッテティリア】の体幹を両断する。
手刀で竜盤型異形【サウリシア】の頸骨を切断する。
今度は蝙蝠型異形【キロプテラ】が複数接近して来たので、背部の触手を展開する。
六本の触手で六匹の異形を確実に拘束、そのまま一気に捩じ切った。
異形の肉片が散乱し、粘性の体液が散雨する。
――これこそが『甲冑式』……!
力を振るう事が気持ちよかった。こんな快感は初めてだった。
あたしは無力ではない。
この生々しい蹂躙劇はすべてあたしが引き起こしたものだ。
充溢する思いのまま、あたしは六つの触手を一つに束ねる。
「あはは。こんなにおっきくなっちゃった。ヤッバーイ」
実際、異形細胞が剥き出しで、ビクビク脈打つ触手は太腿ほどの巨槍となっていた。
「ねえ。どう思う?」
あたしが白衣の女性技官(たしか、今年で二十七だっけ?)に問いかける。
すると、彼女は涙目で脅えながら応える。
「お、お願い。た、助けて……」
「あはっ、こういう時はさ。『何でもするから』ぐらい言おうよ」
間髪入れずに、触手の巨槍を彼女の唇に割り入れる。
「あがっ、うぶうううっ、ぐ、ぐうううぅあおぼっ!!?」
小さな口を異形の触手で満たしてやると、彼女は意味不明な音を出した。
息苦しいのか無様に鼻で呼吸をしようとする。あるいは顎も外れたのかもしれない。
「あ、大き過ぎた?」
しくじった。これでは尋問にも支障が出そうだ。
「まあ、いいわ。なら、せいぜいそのカラダで愉しませて頂戴」
彼女の目に絶望の色が灯り、あたしの下腹は快感に疼いた。
そして――。
女の肉体をたっぷりと味わった後、あたしは周囲の気配を探る(今のあたしにはそれが十全にできる)。
――半径1キロに敵性因子なし……ね。
だから、甲冑式を解く。異形の装甲が【融解】していく。
甲冑式異形が消えて、あたしはその時、自分が下着も帯びていない事に気付いた。
訓練用の大鏡――この国でいう姿見があったので、視線を移す。
そこには、あたし、アストリッド十五歳の一糸纏わぬ全裸があった。
我ながら、いい身体だ。
女性にしては長身で、均整もとれている痩躯。
細く長くしなやかな手足に、高い位置の引き締まった腰。
胸部の双丘はE65で、形と張りがよく、ツンと上を向いている。
小さく控えめな蕾は、雪を思わせる皓い肌を彩るに相応しい。
そして、腰まで覆う波打つ金髪に、獣を思わせる切れ長の碧眼。
彫りの深い顔立ちがそれらと美麗な調和を成している。
とはいえ……。
「まずは着るものを探すか……」
***
***
***
それは日曜、俺が私服で外出中の事だった――。
「ねえ、そこの君、ちょっと付き合ってくれない?」
俺、東方晶光十四歳は振り返って驚いた。
そこにいたのは長く波打つ金髪の美少女で、しかも自分へと声をかけていたからだ。
「あたし、アストリッド十五歳。君は?」
俺は思わず、左右を見渡した。まず、人違いを疑った。こんなラノベみたいな話があるはずないと思ったからだ。
何しろ、金髪の美少女だ。
勿論、その時の俺は何も知らなかった。
が、アストリッドが金髪美少女である事は、一目瞭然だったからだ。
しかし、ここは住宅街の一本道。人通りがそこそこあるものの、人違いをされる程ではない。つまり……。
「え、俺?」
「他に誰がいるのよ?」
アストリッドは唇を尖らせた。表情は柔和だが、眦は鋭い。勝気そうな顔立ちだ。
背丈も俺より高い。青のスキニージーンズと白のタンクトップがすらりとしながらも、メリハリのある肢体を際立たせる。……何せ、スキニージーンズは文字通り肌に張り付く造形で、タンクトップも同じく薄地なピチピチ具合だった。つまり、腰から下の曲線は丸見えだし、胸の大きさや形も隠せていない。
告白する。俺は明らかに気押されていた。俺は平々凡々たる日本人男子中学生である。
こんな豊かで長い金髪を直に見たのは初めてだったし、その山吹色だけでも俺を圧倒するには十分だった。
「な、何で? 俺?」
「嫌なの? あたしと付き合うのが?」
そう言って、アストリッドは腰をかがめて、俺の顔に瞳を近づける。
二つの膨らみがますます強調され、タンクトップの下の赤紫のブラジャーが嫌でも目に……。いや、アストリッドの双眸がこれまた初めて見る空色の碧眼である事に気付いた。
「ところで、君の体重は?」
「え、俺? 39キロだけど?」
「うんうん。素晴らしい。じゃあ、付き合おう」
「意味が分からない」
「細かい事を言うのね。君はあたしと付き合えるのが嬉しくないの?」
「いや、それは嬉しいけど」
「ありがと。じゃあ、付き合ってね」
そして、次の瞬間――
俺は気を失った。
***
目覚めたら、俺は自宅の庭で寝転んでいた。
***
翌日、月曜、学校、朝礼前に――
「……晶兄、それ、なんてラノベ?」
級友の三葉ツツジ十三歳は俺の相談にそう返答していた。
「言うな。俺もそんな気はしているんだよ」
補足しておくと、この三葉ツツジは俺の従妹であり、近所に住む幼馴染でもある。俺が四月生まれで、ツツジが早生まれの三月生まれ――ということで同学年になっているが、誕生日は一年近い差があった。
だから、ツツジは俺を『晶兄』と呼ぶ。幼い頃に一年の差は大きい。昔は何をやっても俺の方が上だったのだ。
今は?……お互いに中学二年だから、女子の方が成長も早いとだけ言っておこう。
いや、それでも、ツツジはこの歳で身長148センチという小柄さ、双眸を隠すような野暮ったい黒髪に、眼鏡の童顔である。うっすらそばかすまでありやがる。こいつが俺を『兄』と呼ぶのは当然の摂理だ。……俺も身長は148センチだが、男子の方が成長期は遅いもんな!
……とはいえ、最近のツツジは生意気盛りでもあった。
「さすがは晶兄、いいえ、東方晶光――キラキラネームの男子にはラノベみたいな運命が待っているんだね」
「言うな。俺もそれは気にしているんだよ……」
「東方に昇る三つの日の光――その名も東方晶光」
「だから、真面目に答えてくれよ……」
大体、お前の三葉ツツジという名前だって、わりとラノベ臭いと思うぞ。
「じゃ、真面目に話そうか?」ツツジは少し神妙な顔になった。「おじさんおばさんには相談したの?」
「俺もそれは考えたんだけどな……信じてもらえると思うか?」
「難しいねー。私は晶兄が夢でも見たんだと思っている」
「だから、相談しなかったんだ。一応、財布の中身は真っ先に確認したけど、何も変化はなかったし」
「じゃ、警察に行っても無駄かもね。その金髪碧眼美少女の実在証明すら難しいよ」
具体的な被害があるなら、警察も動くかもしれない。通行人の証言を集めるなり、監視装置の記録を調べるなりして、あのアストリッドの実在は証明できるかもしれない。
とはいえ、何も被害がないのに調べてくれと言って、動いてくれるほど、警察が暇とも思えない。
いや……
「仮に警察が動いてくれたとしても、だ。それでアストリッドの実在を証明できなければ、俺は信用を失う。最悪、本当に危険な事に巻き込まれた時、警察に狂言を疑われるだろう。それは困る」
「つまり、自分でもそのアストリッドさんとやらの実在証明が困難だと思っているの?」
「……金髪碧眼美少女だぞ? それこそアニメみたいな話だからな……」
「まあ、私も晶兄が心配というより、話の矛盾点を突いて、からかいたいだけだしね」
ツツジの台詞は身も蓋もないものだった。こいつも昔は可愛げがあったんだがな。『晶兄、晶兄』と俺の後をついてきた頃が懐かしいぜ。
「それで、昨日から何か変わった事は?」
「ああ、そういえば……」
「そういえば?」
「胸の奥がズキズキと痛むんだ」
「……恋?」
「ああ、甘いものが恋しくもあるんだ。昨日なんてコーラをがぶ飲みしてしまった。俺、炭酸は苦手なのに……」
「恋心……なの?」
「それに何だかやたら食欲が湧くんだ。今朝は白米を三杯もお代わりしてしまった。俺、朝は食欲ない方だったのに……」
「それはただの成長期じゃないの?」
俺の身長は中学二年にしてまだ148センチメートル39キログラム――男子の成長は女子より遅い。
なるほど、今から成長期と考えてもおかしくはなかった。
「しかし、胸の奥ほどではないが、手足にも若干の傷みがあるぞ」
「それこそ、成長痛じゃない?」
「――つまり、これは初恋と成長期と成長痛が一度に来たと?」
俺がそう言うと、ツツジは「かーもね」とわざとらしく肩を竦めた。
***
それから一週間は何事もなく過ぎて行った……。
……と、この時の俺は思っていた。
実際には、この間に事態は取り返しのつかないところまで進んでいた。何せ、胸の奥の強い痛みと、手足の弱い痛みと、異様な食欲は漸減しつつも継続していたのだ。
ところが、肝心の俺に自覚症状がまるでなかった。
身体の痛みは恋心でなくとも気の迷いかもしれないし、成長期と成長痛というツツジの意見も理に適っている。おまけにそれらの痛みは徐々に薄れていく。
だから、俺は自分を納得させてしまった。
それはとんでもない誤りだったのだが……。
***
その日、俺はツツジを誘って、校舎裏の山道を軽く散歩していた。
日の光が届かない森の中、未舗装の獣道を進んでいると、ツツジが抗議の声を上げる。
「ねえ。軽く散歩じゃなかったの?」
「ああ」
「何か、もう1キロほど歩いている気がするんだけど……」
「ああ。そして、あと1キロだ。目標は一本杉だからな。今日の17:30までは余裕もあるし、もう少し足を緩めるか?」
俺が答えると、ツツジは怪訝な顔になった。
「? 何故そんなに目標が具体的なの?」
「これが今朝、俺の下駄箱に入っていたからだ」
そう言って、俺は折りたたんだA4用紙を一枚渡す。そこには簡潔な印字で次のように記されていた。
『本日17:30時に校舎裏の山林、一本杉にて待つ アストリッド』
「という訳だな」
ちなみに一本杉というのは文中にある通り、校舎裏の山林にある巨大な杉の木として、地域限定で有名だった。成長ホルモンの異常分泌か何かで巨木化し、幹は太く背は喬く、日を遮り、周りの草木を枯らしながら、一本だけすくすく育っている杉の木だ。
「ちょ、アストリッドって」
「ああ、先週相談した金髪碧眼美少女の名だ。わかったろ?」
「全然、わかんない。何で私が付き合わされているの?」
「勿論、俺一人だと怖いからだ」
「……怖いなら、無視しなよ」
「それはそれで……お礼参りとか怖いだろう?」
「晶兄の臆病者」
「じゃ、聞く。ツツジ、俺が正直に事情を説明したら、お前は付いて来たか?」
「そんなわけないでしょ。なんか怖いもん」
「お前だって臆病じゃないか。やはり、説明せずに正解だったな」
「……ねえ、私、もう帰るよ」
ツツジはそう口にした。こうして話している間も、俺たちは足を止めていない。元々、大した距離でもない。このまま、なし崩し的に到着してしまうのを恐れているのだろう。
「ま、そう言うな。金髪美少女だぞ。ここまで来た以上、見てみたくないか?」
「実在するなら興味はあるけど、こんな山道を制服スカートで歩かされる身になってよ」
「ふん。これに懲りたら、そんな不合理な格好は改めるんだな」
「……晶兄って、あれだね。正社員にはなれるけど、会社の指示文書に『動きやすい靴を履く事』とかあったら、張り切って派遣社員女子のヒールを規制する類だよね……」
「当然だ。給料を貰っている以上、就業規則は一定尊重すべきだ。そもそも靴とは荒野を歩くために足を保護するのが本義。わざわざ転びやすい踵を選ぶなど、正気の沙汰とは思えん」
「晶兄はさ、もうちょっと女心を……て、何、あれ?」
「おいおい。そんな手にのる程、俺は……」
「違う。ほら、一本杉の隣のあれ……!」
ツツジが指差した先には『異形』がいた。
その『異形』は古い恐竜図鑑に出てくるティラノサウルスの様に二足歩行をしていた。その赤黒い全身は2メートル程。なるほど、本物のティラノサウルスには及ばない。が、驚異である事に変わりはない。
何より、その巨大な両腕と爪牙!
そして、剥き出しの筋肉と脈打つ血管! さらに、不気味に滴る粘液!
まさに『異形』と呼ぶべき様相だった。
「熊……ではないよな?」
「き、着ぐるみ?」
すると、『異形』はその巨大な右腕を一振りした。
その結果、ミシミシという音が辺りに響き、目印だった一本杉が倒れる。
成長ホルモンの異常分泌か何かで巨木化して、幹は太く背は喬く、日を遮り、周りの草木を枯らしながら、一本だけすくすく育っている杉の木――があっさり倒された。
あれがヒトの身体だったら、ひとたまりもない。
それはツツジも同意見だったらしい。
「ね、ねえ、晶兄。私、すべてが晶兄の狂言だと期待しているんだけど……」
「き、奇遇だな。俺もだよ……」
俺はそう返すのが精一杯だった。いや、そう返すべきではなかったのかもしれない。
その『異形』が俺達の声に気付いたのか、こちらに視線を向けた(そう、なんとあの『異形』には両眼らしきものがあった)からだ。
「と、とりあえず」ツツジは先に冷静さを取り戻してくれた。「熊と同じ対処法でいこう」
「ああ、相手から目を逸らさずに、ゆっくりと後退するんよな?」
熊は犬や猫と同じ食肉目だ。逃げるモノを獲物と認識する習性がある。だから、露骨な逃げ方をしてはいけない……はずだ。多分。
「そうそう。ついでに何か要らないものを投げて、気を引こう」
「よし。いや、ちょっと待て……」
俺の背後の気配があった。
その理由に仮説を立てるのは後になるが、この時の俺には何となくわかったのだ。
「右後ろにも何かいる……!」
「え……」ツツジは、しかし、疑う前に嫌な事を教えてくれた。「左後ろにもいるよ……!」
そちらの『異形』はまるで蜥蜴のように四足で爬行していた。ただ、蜥蜴と違い、尾はない。脚部は胴体より太く、鱗も毛も外骨格もなかった。おまけに全長は2メートル程で、やはり、剥き出しの筋肉に脈打つ血管。そして、やはり鋭利で巨大な爪牙。
それが左右後方に二匹。
「み、見た目によらず、温厚な性格だったりはしないか?」
「だったら、わざわざ樹を薙ぎ倒したりはしないでしょ……!」
俺の希望的観測をツツジはあっさり否定する。
実際、三匹の異形は俺達にじりじり向かってきた。それは獲物を追う猟犬の動きだった。
その時だ。
――「落ち着きなさい」
「え?」
――「竜盤型が混じっているとはいえ、相手は自律式よ」
「どういう意味だよ。お前は誰だよ」
――「甲冑式を使える……はずの君が負けるはずがない」
「はず? はずってなんだよ。はずって……!?」
――「仕方がないわね。ちょっと手助けしてあげる。これで駄目なら、ま、諦めるから」
「! 諦めるって、どういう……!?」
しかし、俺は二の句を継げなかった。胸部に鈍痛が走ったからだ。
それは身体の中で蛇が蠢くような苦痛だった。
「晶兄。さっきから何を独り言ばかり、そんな事をしている場合じゃ……!」
「っ……!」
ツツジが俺を揺さぶり、俺はその場に蹲った。
「ちょ、何、座り込んでいるの。逃げなきゃまずいって……!」
「ひ、独り言? さっきの声、聞こえてなかったのか?」
「な、何を……うわ、来るよ……!」
例の蜥蜴に似た『異形』が左側から飛び掛かってきた。
やはり猟犬の動きだ。俺はこの窮地にどこか冷静に観察していた。
そして、俺の胸にさらなる激痛が走り――。
その『異形』は串刺しにされていた。
俺の胸から、赤黒い触手が何本も飛び出て、蜥蜴に似た『異形』を貫いたのだ。
「あ、晶兄……な、何なの、それ……」
「え……これ?」
俺が聞きたいぐらいだった。
しかし、よく見れば、俺の胸から飛び出たその触手はあの『異形』とどこか似ている。
さらに言うなら、そう判断する余裕が俺にはあった。胸部を食い破るように触手が出て来た割に痛みが乏しい。痛い事は痛いが、耐えられない程でもない。出血もしているが、制服をわずかに赤くするぐらいで、これも控えめだった。
一方で、串刺しにされた『異形』はガクガクと震えた挙句、動かなくなった。生々しい外見に似合ってか、あれもあくまで生身の存在であり、一定以上の損傷には耐えられないらしい。
助かったのか?――と一瞬でも思った俺は甘かった。
俺の胸部から飛び出た触手は上下左右四方八方に広がったのだ。
その結果、串刺しだった『異形』の四肢は四散する。
辺りには異形の肉片と粘性の体液が飛び散った。
しかし、俺はそれどころではない。
その触手が今度は俺に向かってきたからだ。
「う、うわあああああああ……!」
俺は腰を抜かして泣き叫んだ。
あの『異形』がなんなのかはわからない。
しかし、ああもあっさり筋肉組織?を破壊できるこの触手が安全な代物とは思えない。
俺は恥も外聞もなく、逃げようとした。が、この触手は俺の胸部から出て来た。つまり、俺の身体に生えているのだ。いくら逃げても距離が縮まるはずはない。滑稽な話だったが、どうしようもなかった。この状況で冷静に対処できる奴がいたら、教えて欲しい。
そして、放射状に広がった触手が俺へと殺到する。
ツツジの声がした。
「晶兄ぃぃぃっっ……!」
直接的な痛みはなかった。
ただし、触手に包まれたため、やたらと息苦しかった。
そう、俺は放射状に広がった触手にそのまま包まれていた。あの蜥蜴の様な『異形』と違い、貫かれる事は免れていた。ただ、全身が触手で覆われれば、息苦しくなるものだ。
――お、俺を窒息させる気なのか?
そんな事も考えたが、事態はそれどころではなかった。
「中に……! 中に入ってくる……!」
耳、口、鼻――触手が俺の全身の穴という穴から、体内へと侵入して来るのだ。
「あああああ……」
まるで蛹や繭の中にいる気分だった。実際、昆虫が変態する時、幼虫は蛹の中で一度ドロドロに溶かされ、生体組織を造り変えられるらしい。俺が経験している感覚と恐怖はそれと似た様なものだった。
――嫌だっ。こんなの嫌だっ。
もう、その言葉も声にはなっていないはずだ。何しろ、俺は俺の中から出てきた異形の触手の中に囚われているのだから。
――「言っておくけど」
と、その時、再び声がしていた。
――「そういうのはあたしみたいな美少女がやるからこそ、魅力的なのよ。君みたいな男がやってもキモイだけだからね」
俺は気付いた。『あたしみたいな美少女』という言い方、あのラノベみたいな金髪碧眼美少女のアストリッドとよく似ている。
しかし、気付いたからと言って、どうにかなるわけでもない。
実際、もう一匹の蜥蜴に似た『異形』が飛びかかってきた。
俺は右手を突き出した。
深い考えあっての話ではない。ただその時、その異形の動きはやけにゆっくりと見えていた気がする。あるいは、これがいわゆる『記憶の編集』だったのかもしれない。
いずれにせよ――。
はっきりしている事がある。
突き出した俺の腕は、その『異形』をちょうど貫いていたのだ。
その末路は左から来た一匹目と同じだ。
ガクガクと震えた挙句、動かなくなったのだ。
しかも、その感触は生卵を指で貫くようなあっけないものだった。傍目にも強靭そうな『異形』の細胞組織を貫く感触ではなかった。
しかし、ツツジの驚きはそれだけではなかったようだ。
「晶兄、そ、その鎧は?」
「鎧?」
「何なのっ、その格好はっ?」
「恰好? どういうことだ?」
「だから……、ああ、もうっ!」
ツツジは口頭ではらちが明かないと考えたらしい。
手鏡を俺へ向けた。
「な、何なんだ? これが……俺?」
そこに映っていた俺の姿を一言で表すなら、
――『生々(なまなま)しい甲冑で鎧われた異形のヒト型』
と呼ぶべきモノだったのだ。
大きさは俺本来の体格と大差はない。二本の脚で立ち、二本の腕を具えて、脊椎の上に頭部がある。しかし、その悉くをあの『異形』と同じビクンビクン脈打つ細胞組織?で拘束構成され、皮膚や衣類は全く見えない。顔には大きな複眼と細長い触角が形成され、あたかも仮面をかぶっているようだ。さらに両肘両膝両踵には引き金を思わせる突起がある。
――「さあ、あとは竜盤型異形が一体よ。楽勝よね?」
リュウバンガタイギョウ? 竜盤型異形か?
そいつが大きく右腕を俺に向かって振り下ろす。反射的に俺は左手でそれを受け止める。……受け止める事が出来た。あの巨大な杉を薙ぎ倒す一撃を、俺は軽々(かるがる)と受け止める事が出来たのだ。
「ど、どうなっちまったんだよ。俺の身体はっ!?」
気がつくと、発声ができていた。つまり、呼吸もできている事になる。
その原理を考える暇もなく、竜盤型異形は左腕を俺へ向かって振り下ろす。今度も俺はそれを右手で受け止める。
ちょうど、四つに組んでの力比べだった。
それが何秒か続くと、失望の声が届く。
――「……何をやっているの? そんなの捩じ切りなさいよ」
「捩じ切る!? そんな事できるか!?」
見れば、俺の両腕も異形の装甲?に覆われている。が、所詮は平凡な男子中学生の腕に異形の細胞が覆っているだけだ。
逆に竜盤型異形とやらは2メートルの巨体に相応しい腕の太さだ。力比べをして勝てるはずがない。
――「本当にできないと思う?」
「……っ」
俺は言葉に詰まった。何故なら、俺は既に蜥蜴に似た異形を二匹も殺しているからだ。
今もこうやって体格も体重も腕の太さも上の相手と対等に力比べをしている。
俺の『異形』とあの『異形』は同系統かもしれない。
しかし、性能は俺の方が上なのかもしれない。
――「怯えるのは構わないわよ。竜盤型とはいえ所詮自律式だから、甲冑式を着こんだ君をそう易々(やすやす)と傷つけれない。好きなだけ尻込みしなさい。それでも君は無事だから」
――俺は? どういう事だ?
――「隣の娘は巻き添えを食らうかもね」
その声が艶めかしい色を帯び、俺の頭に血が上った。
竜盤型異形がその顎で俺の頭を噛み砕こうとしてくる。
しかし、俺は逆に頭突きをして、相手を怯ませる。
そして、あの声に従って、そのまま両腕を捩じ切った。
……そう、捩じ切れたのだ。
いずれにせよ、これで竜盤型異形は戦闘力のほとんどを失った。
しかし、俺は容赦しなかった。さすがにそんな余裕はなかった。
相手の胴体へ全力で膝蹴りを放ち、打ち貫く。
当然、竜盤型異形はガクガクと震えた挙句、動かなくなる……だけではなかった。
その巨体がドロドロと溶け出し、ブクブクと泡を立て始めたのだ。
文字通りの【融解】で、液状化し、気体化し……。
いや、【融解】していったのは竜盤型異形だけではなかった。
「お、俺の身体も……」
溶けていた。あの竜盤型異形も溶けていて、戦闘能力を喪失しているのはありがたいが、いずれも【融解】が止まらない。
よく見れば、あの蜥蜴に似た異形の死体も、溶けていき、さらには【融解】していく。
「うわああああああああっ……!」
「晶兄いいいいいいいいっ……!」
結局――『異形』はすべて【融解】した。
森には、制服姿の俺とツツジの二人だけが残ったのだった。
***
そして、俺とツツジが現実を受け容れきれないまま、俺の部屋へ戻ると――
「あら、おかえりなさい」
件の金髪美少女アストリッドが寝台の上で文庫本を読んでいた。
***
「……!」
「うわ、ほんとに金髪さんだ!」
俺は絶句し、ツツジは感動していた。
「あのさ。東方晶光クン、これ君の本棚の奥に隠してあったんだけど」
アストリッドはあの日と同じスキニージーンズとタンクトップだ。
そして、優雅に文庫本――正確にはコバルト文庫を掲げて言う。
「『マリア様がみてる』って、どういう事?」
「き、貴様……っ!」
この金髪美少女、よりにもよって、ツツジの前でとんでもない事を言いやがった。
「しかも、布団の下には『コミック百合姫』があったし……」
「だ、黙れ……!」
「男の子なら、『仮面ライダー』とか『強殖装甲ガイバー』にしておきなよ。そうすれば、あたしも説明し易いのに」
「あー、『マリア様がみてる』に『コミック百合姫』ですか」ツツジが微妙な顔をした。
「そうなの。男子中学生なんだから、こういうところにはエロ本が隠してあると期待していたのにさ。もう、がっかりだわ」
挑発されている事はわかっていた。が、我慢できなかった。先程の異常事態に興奮していた上、部屋を荒らされたのだ。忍耐にも限度がある。
俺はアストリッドへ腕を伸ばす。襟を掴んだ上の足払いで、床に引き落とし、その顔の隣に脅しの一発を入れてやる……つもりだった。
次の瞬間――
床に叩きつけられたのは俺の方だった。
「はい。一本」
アストリッドの言う通りだった。俺は綺麗に一本背負いをされたのだった。
――こいつ、柔道経験者か……?!
「でも、そこのお嬢さんみたいに可愛い娘を連れ込んで、二人きりになろうってところは、お猿さんね」
――畜生……!
俺は屈辱に身を震わせた。いや、正直、恐ろしかった。
――音も痛みもほとんどなかった……!
俺は派手に投げられた。また、俺は受け身が上手いわけでもない。その上でなお、この有り様。つまり、アストリッドの力量が卓越しており、その上で手加減されたのだ。
一方で、ツツジは「え、可愛い? それ、私の事ですか?」と頬を染めていやがった。おい、俺が投げ飛ばされた事を気にしろよ。
「ええ。それじゃあ、改めて、はじめまして。あたしはアストリッドよ」そこで、彼女は何故か本棚をちらりと見た。「アストリッド・ラーゲルレーヴ、十五歳」
「わ、私、三葉ツツジ、十三歳です」
ツツジはあっさり本名を明かした。……こいつ、美人を前にして舞い上がっていやがるのか……?
「それで、君が東方晶光クン?」
アストリッドは俺を見下しながら、確認する。
「にしても、東方晶光って、キラキラした御芳名ね」
「やっぱりそう思います? 私も芳しいというよりは輝かしい名前だと思うんですよ」
女子同士で意気投合しやがって……!
俺はその隙にアストリッドから距離をとる(アストリッドなら俺を完全に固めることもできたはずだ。これが油断によるものか、あえて余裕を見せたのかは、わからなかった)。
そして、携帯端末を取り出し、撮影機能を起ち上げ――。
すかさず、パシャパシャとアストリッドを写真に収める。
「……肖像権の侵害よ」
「黙れ、不法侵入者。警察に通報するぞ」
この時の俺は我ながら冴えていた。
これで、かねてから問題だった『謎の金髪碧眼美少女アストリッドの実在』をちゃんと証明できるのだ。一介の男子中学生に高度な画像加工技術がないことは自明だ。ツツジの証言も合わせれば、なおの事。警察もただの悪戯とは考えないはずだ。
しかし、アストリッドは冷静だった。
「ふうん。逆に言えば、君たちまだ通報していないんだ」
「……っ」
俺は一瞬たじろぐが、踏み止まった。
「あの『異形』とやらも幻覚なんかではない。実際、俺の身体には粘液が残っていた。……すぐに【融解】したが、この制服には成分が残っているはずだ」
「その粘液ベトベトで糸を引くってのも、あたしみたいな美少女がやってこその名場面。君みたいな野郎がやってもね」
「茶化すな」
「とりあえず、その制服を証拠に差し出しても無駄よ。《異形細胞》も代謝が激しいから、とっくに水と窒素と二酸化炭素に分解されているわ。仮に君の制服から残留物を探しても、せいぜい、『水をかぶった』痕跡しか見当たらないでしょうね」
「なん……だと……?」
「……君のためにも忠告しておく。警察に証拠を差し出すなら、あたしの写真だけにしておきなさい。あたしの写真だけなら、君は信用される。けど、《異形》の話を持ち出せば、君は信用されなくなる。警察に限らず、それがまともな大人の判断だから」
「脅迫するつもりか?」
「事実の指摘よ。脅迫というのはね、事実を指摘している者と事実を発生させている者が同一である時に使うの。でも、今のあたしは事実を指摘している者であって、事実を発生させている者ではない」
「……回りくどい事を……!」
「あら? あの《異形》はあたしが作ったとでも? たしかに、あたしはとっても優秀な美少女だけど、所詮は一個人。その能力には限界があるの。それは義務教育を受けている中学生なら、理解できるしょう?」
それとも君は『この怪奇現象は【魔女】が引き起こしたに違いない!』とほざく昔の欧州人なのかしら?――とアストリッドはせせら笑った。
俺が苛立っていると、ツツジが素直に訊ねる。
「あの、アストリッドさん。それは私たちが見たあの怪物――《異形》とやらは【融解】した後、直接的な痕跡をほとんど残さないという事でしょうか?」
「ええ、その通りよ。それが《荒夏》が秘密結社でいられる理由の一つ」
アストリッドは打って変わって、誠実に答えた。
「おい、何だよ、その秘密結社って……」
「順番を決めましょう」
アストリッドは俺の台詞を断ち切る形で提案する。
「三人で言い合いになったら、混乱するわ。発言棒制度の様に一人一つずつ質問していくのはどう?」
「何故、俺が不法侵入者に従わねばならん……!」
「嫌なら、あたしは出て行く。いかが?」
「……」
俺は黙考し、決断した。
「……いいだろう。三人で一つずつ質問をしていこう」
アストリッドは「ええ、お互いに情報共有しましょうね」と邪悪に微笑んだ。……この女にのせられているのはわかっている。しかし、それでも情報が欲しかった。それに俺とツツジは二人だが、アストリッドは一人だ。質問できる回数自体は俺とツツジの方が上になる筈だ。
「では、俺から、質問させてもらう」
「ええ、どうぞ」
「俺たちを襲った化け物と、俺の中から出てきた化け物は、何だ?」
「質問が抽象的な上に、一つではない気がするけど?」
「早く答えろよ」
「うん。君、悪くないカンをしている。ええ、共に《異形》よ。君たちを襲った化け物も、君の中から出てきた化け物も、《異形》――秘密結社《荒夏》の生みだした疑似生体兵器《異形》よ」
「やはり、同類なんだな?」
「その通り。まあ、見た目も似ているし、あたしも遠回しに伝えてきたから。気付くのも無理ないか」
「じゃあ、あれは……」
「じゃあ、次はあたしが質問するわね」
アストリッドは強引に発言権を自分のものにする。
「東方晶光クン、もしかして、空手とかやってなかった?」
「……それは……」
「あ、やってました。やってましたよ。実は晶兄ってば、昔は空手で結構いいところまで行っていたんですよ」
ツツジはあっさり俺の個人情報を開陳しやがった。
「なるほど。それで何故今はやっていないの?」
「晶兄ってば、こんな小柄でしょう? グローブありの顔面ありだと、さすがに体格差で負けちゃって。まだ背は伸びるから、辞めない方がいいって、私は言ったんですけ……」
「女は黙っていろ……!」
俺はツツジへ向かって怒鳴りつけた。
ツツジは「ぶー。晶兄ってば、都合が悪くなると、いつもそれだー」とこぼす。
そして、アストリッドへ向けて尋ねる。
「何でわかった?」
実のところ、俺は経歴を調べられている事を覚悟した。それなら、俺に空手経験がある事は明らかだ。
ところが、アストリッドの答えは違った。
「動き……かな? あたし、空手美少女とか、好きだから」
「俺は男だよ」
「だから、残念なの。女の子ならよかったのにーってね」
そう言って、アストリッドは肩を竦めた。ツツジと違ってこういう挙措も自然に映える女である。それこそ、アメリカの少年少女っぽい仕草だった。
しかし、こうして見ると、目の前の金髪碧眼美少女は雌豹を思わせる風格の主である。少なくとも、犬か猫かと聞かれれば、猫だ。野性を捨てられず、家畜に成りきれない獣の娘である。
「じゃあ、次は私ですね」
「ええ、ツツジさんの質問になら、あたしは何でもお答えするわ」
「ズバリ! アストリッドさんのスリーサイズは?!」
……こいつは何を質問してやがるんだ?
「上から、88、59、85よ」
……こいつも何を即答してやがるんだ?
俺の『初対面でスリーサイズを説明する女なんているないだろ』というツッコミも間に合わなかった。
しかも、アストリッドはさらに凄まじい事を言い出した。
「ねえ、ツツジさん。あたしの胸、触りたいの?」
「ふえっ?!」
「貴様は何を言っているんだよ!」
「い、いいんですか?」
「お前も何を言っているんだよ!」
「だって、ツツジさんってば、さっきからチラチラとあたしの胸を見ているでしょう? もしかして気になるのかなと思ってね」
そう言って、アストリッドは綺麗な形の自身の双丘を指差す。
すると、ツツジは即座に駆け寄る。
「じゃあ、是非!」
「はい。どうぞ」
アストリッドは両腕で両胸を挟み、わざわざ乳房の巨きさを強調して、ツツジの眼前に差し出す。
そして、ツツジは欲望に忠実だった。
異性間なら即通報という勢いで揉みほぐす。
「ふわあ……やっぱり凄いですねえ。これ」
「大きい胸って面倒臭いわよ。長い髪と同じでね」
「あ、やっぱり、長髪って面倒くさいんですか? 私、あんまり伸ばした事がなくて……」
「うーん、髪を洗うのが手間かな? あとは夏暑いのと御不浄?」
「……日々の手入れは?」
「あ、正直、あたし、その辺りは手を抜いている。前髪だけ整えて、後は伸ばすに任せているって感じ?」
「……むしろ、その胸の方が邪魔になると?」
「うん。小さい時は、無頓着に扱ってもよかったけど、大きくなると、ちゃんと管理しておかないと、形も崩れちゃうし」
「それだけの価値がありますよ。私なんてアンダー65のAだから羨ましいです」
「あら、アンダーは同じなのね。ちなみにあたしはEよ」
……俺がいる事を忘れていないか? ……あと、ツツジって、Aカップだったのか……。そうか、Aカップ……。
「ところで晶光クンはこちらをガン見しているみたいだけど、羨ましいのかしら?」
「ふ、ふん。め、目の保養してやる!」
「へえ、君、そう言う目で見ているんだ?」
「うわー、晶兄、最低―」
「なんで、俺が責められる流れなんだよ!」
俺は思わず怒鳴った後、少し頭を冷やした。
そうだ。こんな下らない事に(いやまあ、ツツジがAカップというのは実に重要な情報だったが)時間を費やしている場合ではない。
「次は、俺の質問だ」
「ええ、どうぞ」
アストリッドはゆっくり俺の方に向き直り、ツツジは名残惜しそうにEカップから手を放した。
「……き……」
貴様は何者だ?――と聞こうとして、俺は止まった。『アストリッド・ラーゲルレーヴ、十五歳。身長は○×で体重は○×で、スリーサイズはさっき言った通り上から……』とか返されたら、目も当てられない。
俺は頭を振って、問い質す。
「貴様のせいで、俺達はこんな目に合っているのか?」
「ええ、そうよ。聞いたわよね?――『付き合って』ってね」
「……!」
「君は『嬉しい』と言ってくれたわ。あの時もこの胸をガン見して、鼻の下を伸ばしてさ」
アストリッドは両腕を交差させ、今度は己の乳房を自分の手で揉み始めた。
俺も今度こそ本気で殴りかりそうになった。
その時――。
「晶光、夕飯よー。早く来なさーい」
母親の声が俺の自室の二階まで届いた。
「「「……」」」
最初にアストリッドが口を開く。
「行ってきなよ。家族の食卓は代え難いものだから」
「……行っていいんだな?」
「勿論よ。君はそれなりに聡明そうだからね」
「……どういう意味だ?」
「軽率な行動は慎んでくれると期待できる。ま、そういう事よ」
「…………」
俺が黙り込んでいると、アストリッドは立ち上がって俺に近づく。
そして、俺の耳もとへ、俺にだけ聞こえる声で、囁いた。
「あたしは君の住所氏名年齢から家族構成まで把握しているって事、君が知らないような遠縁に至るまでね」
「貴様……!」
俺は反射的にアストリッドの首元を掴む。
――? 掴めた!
やっと巡ってきた反撃の機会に俺が興奮していると……。
「あ、でも食事前に」
と、アストリッドが俺は胸元をとんと叩いた。
視線を下げると、アストリッドが何かを俺の胸元へ刺し込んでいた。
「うわああっ」
俺は驚いて、後ずさる。これも痛みがなかったが、何かを刺されたのは間違いない。
それは注射器に見えた。
今時の注射器は服の上からでもほぼ無痛で機能する。
実際、アストリッドの手にあったのは、最新の型式だった。
「な、なな何をした?!」
「ビビらない。ただの成分採取よ」
「せ、成分採取?」
俺はそこで気付いた。アストリッドが刺し込んだ部位は、あの時、俺か『異形』が飛び出た場所だった。
アストリッドは手早くそれを抜いて、採血管らしきものを外した。さらにいつの間にか持ち込んでいた背嚢から、汎用端末(PC)と小型の分析装置らしきものを取り出す。採血管を分析装置に取り付け、さらに汎用端末(PC)と有線接続する。
「な、何をしている?」
「成分採取をしたんだから、成分分析に決まっているでしょう?」
「晶光、夕飯よー。何度言えばわかるのー。騒いでないで早く来なさーい」
アストリッドの落ち着いた声の後に、母親の間延びした声が続いた。
俺は無性に腹が立った。俺は母の飯に文句を言ったことはない。物心ついて以来、飯を作って貰える事にいつも感謝しているし、それを口外もしている。
だと言うのに、母は俺が食事の時間に一分遅れる事すら我慢ならないらしい。母自身の夕飯完成時間なんかはころころ変わるのに!
言っておくが、母の夕飯完成時間がころころ変わる事を責めるつもりはない。母にも、事情があるのだろう。食べさせてもらえるのだから、ありがたい。いつも、そう思ってる。そう、いつもはそう思える。
しかし、今日ばかりは無理だった。
こっちは今、取り込み中なんだよ!!
俺は汗びっしょりなのだ。
先程から、投げられたり、刺されたり、踏んだり蹴ったりなのだ。
しかし、アストリッドは淡々と言う。
「さ、あたしは君の健康診断をしているから、君はママの手料理でも食べてきなさいな」
***
俺は家の階段を極力ゆっくり降りながら、ツツジに訊ねる。
「どう思う?」
「どう思うって……凄い美人さんだったね。スリーサイズも漫画みたいな数字だったし」
「阿呆。俺達は脅迫されているんだぞ」
「しかも、金髪。上から下まで綺麗なゴールデンブロンドだった。あれ、ひょっとしたら、地毛かもね」
「そんな事はどうでもいいだろう!」
俺は苛々(いらいら)していたのだと思う。だから、声音も荒っぽかった。
実際、屈辱に身を震わせていたのだ。
あのアストリッドには勝てない。どう足掻いても勝てない。
体格とか、体重とか、そんな言い訳が通用しない程に……、
あのアストリッドの方が強い。
それをわかってしまっていたのだ。だから、
――畜生。あの時の、あの《異形》の力があれば……!
そんな倒錯した腹立たしさすら覚えていたのだ。
今すぐ110番通報して……駄目だ。あのアストリッドの言う通り、いたずら電話だと思われる。
一方で、ツツジは
「そんなに気になるなら、とりあえず。おじさんおばさんに相談してみようよ」
と、能天気に言ったのだった。
――お前、本気で言っているのか!?
いや、ひょっとしたら、ツツジはわかっていないのかもしれない。
――相談したら、俺の両親はあのアストリッドに殺されるかもしれないんだぞ!!
***
夕食は和やかに過ぎた。
とれくらい和やかだったかと言うと、母がツツジに夕食への同伴まで薦めたぐらいだ。
ツツジも一応は遠慮したが、母が三葉家へ電話で根回し済みである事を伝えると、すぐ態度を切り替えて、椅子に座ったのだった。
――二階の俺の部屋であのアストリッドが何をやっているのか、気にならんのか!?
それとも、俺が小物でツツジが大物ということか?
いずれにせよ、ツツジは母の手料理を心底美味しそうに平らげたのだった。
実際、母のシャリピアンステーキと――その出し汁とチリワインと醤油と味醂と柚子を炒めたソースは凄まじく白米に合っていた。
***
そして、食後にツツジと共に二階の自室へと戻ると、アストリッドの姿はなかった。
「くそ、逃げられたか……!」
「いやあ、これは見逃してもらったんじゃないの?」
俺は憤慨したが、ツツジは冷静に言った。
「まあ……あいつ絶対、柔道とかをやってそうだしな」
「路上で柔道はマジヤバイ?」
「……お前の趣味って、毎回アレだな。さっきも思ったが、『ホーリーランド』とか好きだろう?」
「女の子が一杯出てくる漫画は、晶兄の部屋で読めるからねー」
ツツジはけらけらと笑った。俺は気恥ずかしくなって話を変える。
「これは受け売りだがな――実戦的な技ほど、実践的な技ではない。その点で、空手家は柔道家に勝てないと思う」
「……?」
「つまりだ。空手家がいざ実戦ともなれば、相手の顔を全力で殴らざるを得ない。しかし、現実に他人の顔を全力で殴ったらどうなる?」
「大怪我?」
「そうだ。しかし、柔道家の投げ技ならどうだ?」
「下がアスファルトとかだと洒落にならない気が……」
「ああ、勿論、怪我の危険は付いて回る。しかし、上手くやれば、無傷で無力化できる。……実際、あいつに投げられた俺はピンピンしている」
「そのココロは?」
「ちゃんとした練習ができる」
「おおー」
「いや、これ、マジだからな。練習の度に大怪我の危険が付きまとうのではちゃんとした練習ができない。柔道が凄いのは非殺傷で相手を無力化し易い点だ。だから、ちゃんした練習ができる。空手を含めた他の武道や武術は実戦に近づくほど、事故の危険性が増して、練習が難しくなる。そして、練習していない奴が強くなれるはずがない」
「あれ? 柔道でも、時々死亡例がない?」
「まあな。しかし、熟練すれば熟練するほど、そういったリスクを減らせるのも事実だよ。一応、他の武道や武術にも似たような部分はあるだろうがな」
しかし、それでも柔道には及ばないと思う。
仮に、柔道有段者同士で試合をして、深刻な事故が起きたとする。加害者は起訴され、裁判官は詰問する。『素人同士でもないのに、何故、こんな事故が起きたのです?』――と。
これこそが柔道の凄さだ!
俺は、空手家の端くれでありながら、柔道の技術体系には敬意を抱かざるを得ない。
門外漢の裁判官ですら、理解しているのだ。
卓越した柔道家なら、他者を傷付けずに済むはずだ――と。
極めるほどに、人を傷つけずに済む。まさしく『武』の理想である。
……しかし、俺は、そんな憧憬を隠し、淡々と語る。
「剣術や剣道で考えろ。竹刀や防具や発明されてから、一気に進歩した。安全が確保され、本気で練習ができるというのは、それだけ長所なんだよ」
「そうなの? 漫画とかだと、竹刀とか防具を使わない実戦的な古流の方が強かったりもするけど……」
「それこそ、漫画の中の話だ。勿論、闘争の術だからな。多少の荒っぽさは必要になる。けどな、『実戦的だから、練習できません』なんて流派が強いはずがない」
実際、幕末の頃にそういう『実戦的な古流』と『竹刀剣術』が戦った事はあるらしい。が、結局は『実戦的な古流』とやらのボロ負けだったそうだ。
「……じゃあ、何で、晶兄は空手やっていたの?」
「そりゃ……」と、そこで俺は口籠った。「言いたくない」
「ええー」
「ただ、空手の名誉のために言っておくぞ。俺がコテンパンにやられたのは空手と柔道の差ではない。あくまで、俺とあのアストリッドの差だ。俺が未熟なことを棚に上げても、あのアストリッドは……」
俺は先程から、投げられたり、刺されたり、踏んだり蹴ったりだった。
しかし、一貫して痛みがほとんどなかった。まさに活殺自在神武不殺である。
改めて汗が出る。それも冷や汗の類だ。
「……あのアストリッドは『有段者』な気がする。それも昔気質な」
「へえ、やっぱりそんなに強いんだ」
ツツジは素直に称賛していたが、俺はむしろ嫌悪していた。
この柔道最強論と竹刀剣術優越論はほとんどが刑部先輩の受け売りである。
しかし、そんな刑部先輩はこうも言っていた。
――『昔は、一人を斃して一段、二人を斃して二段と言ったらしい』
それが意味するところは一つだ。
――あの女は何人も殺している気がするんだよ!