不在観測者
【第83回フリーワンライ】
お題:
運命を捻じ曲げてでも
汗腺
フリーワンライ企画概要
http://privatter.net/p/271257
#深夜の真剣文字書き60分一本勝負
それを視界の端に入れた時、瞬間的に全身が沸騰したような気がした。嫌な汗が噴き出す――それは錯覚で、汗腺はまだ分泌すらしていないかった。
ようやく試験から解放されて、晴れやかな気分で帰っていたはずだった。
いつもの下校途中の道。いつもより早い時間。
いつも通り、孝史の隣には美香がいた。冬服の上にコートを着て、鼻の頭と頬を赤く染めている。
いつも見慣れた茜色の道と違って、通りは違う顔を見せている。夕暮れ時には見かけない親子連れが何組かいた。小さい子どもがいると暗い時間帯は避けるものなのだろう。
美香の後ろにそのうちの一組がいた。前を向かずにはしゃいでいた男の子が、美香にぶつかった。
バランスを崩した美香が前のめりになっている。
孝史は倒れそうになる美香に振り向いた時、その向こうから迫る鋼鉄の塊をはっきりと捕らえた。
肌が粟立つ。
車が交差点を斜めに突っ切って来る。
――美香!
叫ぼうとした。
――危ない!
手を伸ばそうとした。
どちらも出来なかった。
バランスを崩した美香。美香にぶつかった男の子。その二人の向こう側に、車道を乗り越えようとする乗用車。
孝史は動けなかった。いや、動かなかった。
世界がモノクロになって止まった。
孝史は混乱しながらもめまぐるしく考えた。
時間が止まるようなことがあるのだろうか?
あったとして、ではなぜ意識があるのか。考えることができるのか。
疑問は湧き出るように生まれるが、解答は思い浮かばない。混乱が思考を掻き乱しかけた時、孝史は気付いた。
美香の髪が先程より広がっている。
車の前輪が歩道に乗り上がっている。
完全に止まっているのではない。そうと思えるぐらいスローになっているのだ。
アスリートが極限の集中状態で到達するという“ゾーン”。あるいは事故の直前、危機を察知した脳は色や音など不要な情報をカットして、視覚情報を高速処理するという。どちらも体感的には時間が止まったように遅くなる。
――つまり、こんな風に。
それで疑問の一つは解消したが、まだ事態の解決には至らない。
このままでは遠からず美香が轢かれることになる。
孝史は、自分でも驚くほどリアルにその光景を思い描けた。同時に、その事実を冷静に受け止めていることにも気付く。
美香を助ける。
手を伸ばし、彼女の胴を抱えるようにして、車とは反対方向に引っ張る。ほとんど歩道に倒れる勢いになるが、助けられる。見てきたかのように想像することが出来た。
だが、その想像には続きがあった。
急ブレーキ。不快な、しかし軽い音。母親の悲鳴。
美香を助けると、その後ろにいた男の子が車に晒される。それはただのイメージのはずだが、孝史にはなぜか確信があった。きっとそうなるのだろう。
美香を助ければ、男の子が犠牲になる。
美香が轢かれれば、男の子は助かる。
どちらかしか救えない、二つの可能性。どちらも起こり得る。どちらにもなり得る。
孝史には二つの未来が重なって見えた。
ふと物理の授業を思い出した。
シュレディンガーの猫。箱を開けて確認するまで、猫の生死は同じ確率で混在しているという問題。そしてもう一つ、観察者効果。観測者が介在することによって、素粒子の性質が波から粒に変化する。
これは、その状態なのかも知れない。孝史が見ているのは、想像でもましてや妄想でもなく、未確定の可能性が重なり合った状態なのだ。
もしそうだとすれば、観測者である孝史が介入することで、可能性が確定する。
孝史は美香の体に手を伸ばした。
毒入りの箱を開けて、猫の生死を確認する。
箱を開ければ、猫は確実に死んでいる。
そしてそのまま、遮るように割って入り、美香を男の子の方へ突き飛ばす。
箱の中に猫ではなく自分を入れる。
それが孝史の答えだった。
*
目を開けた時、始めに意識したのは縋り付いてくる体温だった。
「孝史、良かった。無事で……」
意識ははっきりしなかったが、孝史にはそれが美香の声だとわかった。
どうやら上手く行ったらしい。
もしあれがシュレディンガーの猫なら、前提条件をひっくり返せばいい。観測者がいなくなれば、箱の中の猫の生死を問う必要はなくなる。
それから、初めて聞く男の子の声で挨拶された。
猫はいなくなったが、小さな友達が出来たようだ。
『不在観測者』了
途中で何を書いてるのかわからなくなってきて、最後はなんかもう支離滅裂になってしまった。
一番最初に考えたのが限られた時間を戻してなんやかんやする話で、それがあまりにもシュタゲだったので軌道修正したらこのざまだ。
ただ、シュレディンガーの猫のくだりは悪くなかった気がする。が、なんか本筋と毛色が違うからいまいちしっくり来ない。別の機会に流用するかも知れない。